アベノミクスが成功し、経済が成長すれば自ずと生活が楽になる。今よりももっと幸福な社会が実現される。資本主義社会に生きる我々が、そう考えるのはしごく当然のことであろう。しかし最近ではあちこちで異論や反論がたくさんで始めている。経済学者の中でこの考え方に否定的な意見を持つ人は多い。東京大学大学院経済学研究科教授の武田晴人氏もそのひとり。

 日本経済史を専攻とし、近世から現代までの日本経済に詳しい武田氏は、自著『脱・成長神話』のなかで「経済成長が、人びとが本当に選択したい生き方とは異なるものになる可能性は十分にあり得る」と指摘。その根拠の一つとして、経済成長と人びとの生活と満足度の関係についての分析結果を挙げている。

「第二次世界大戦後の資本主義経済社会の成長株として注目されていた日本は、1958年から1991年にかけて、国民一人当たりのGDPは6倍に増加したにもかかわらず、この期間の日本人の生活満足度は、ほとんど変わっていないのです。これが現実です。経済成長では満足度は上がっていないのです」(同書より)

 もちろん経済成長がいかなる状況においても、まったく意味がないというわけではない。GDPと生活満足度の相関関係について実証を試みた研究者たちがおおむね同意しているのは、実質平均所得が1万米ドルを下回る国々の場合では、一人当たりの平均所得の増加によって生活満足度も増加するというデータもある。だがこのデータは同時に、国民の平均所得が1万米ドルを越える“ある一定の経済成長を遂げた国”では、さらなる経済成長が生活満足度に影響を与えることはないということも示しているのだ。

「人の成長を考えてみてください。誕生からせいぜい20歳くらいまでは、身長が伸び体重が増えるなど身体的な特徴は急変します。(中略)しかし、そのような変化が止まったからといって、人は本当の意味での『人間的な成長』を止めるわけではありません。むしろ、それからの生き方に示されるような人としての成熟が問われるでしょう。それにもかかわらず、身体の大きさだけを見ているのがGNPによる『成長神話』なのです」(同書より)

 一方、武田氏はこれまでのような経済成長は限界に来ており、その事実と向き合う必要があるとも断言している。

 先に述べた、一人当たりのGDPが1万米ドルまでは所得の増加が生活満足度を高めるという経験的な事実を前提に、仮に1万米ドルに満たない国々が1万米ドルに達するためには、たとえば中国では現状の1.5倍(6.6億人分)、インドでは6倍以上(70億人分)の資源が必要になってくるのだ。武田氏は、仮にこの2大国に加え、人口の多いインドネシア、パキスタン、ナイジェリア、バングラデシュが同じ条件で経済成長したとすると、この6カ国だけで追加的に118億人分の資源が必要になるというのだ。

「このように成長の限界を認めざるを得ないとすれば、経済格差の拡大を抑制するためにも先進国は立ち止まる以外にはないようです。生活水準を切り下げることは難しいとしても、せめて現状で立ち止まらないと、解決の糸口は見つからないのです。だから先進国が経済成長を、これまでの経済規模の拡大とか、物的な豊かさの追求のようなかたちで追い続けることはできないのです」(同書より)

 もちろん立ち止まること、つまり「ゼロ成長」を受け入れることは難しい。しかし、仮にこれを受け入れることができると、1990年代から四半世紀に及ぶ日本の「経済停滞」も違った風景に見えてくると武田氏はいう。

「日本の現状は、先進国がいずれも歩まなければならない『ゼロ成長』の時代の先駆けとなる時代として見えてくるからです。(中略)この10年、20年が失われたわけではなく、それは次の時代の経済社会システムを模索していく挑戦のプロセスと位置づけ直すことができるはずです」(同書より)

 経済成長を第一に掲げる安倍政権。成長しなくても本当に豊かな社会が訪れると語る武田氏。どちらが「本当」のことを語っているのか。今、まさに判断すべきときが来ているのかもしれない。