第4回 戦災前の大阪 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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第4回 戦災前の大阪

文・堺屋太一

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戦災前の大阪都心。長堀川から都心部、船場を望む (c)朝日新聞社 

戦災前の大阪都心。長堀川から都心部、船場を望む (c)朝日新聞社 

 戦災前の大阪は、180平方キロほどの市域に320万人余が居住する超過密都市だった。私の自宅の大屋根からの眺めでもそれは実感できた。下り坂の東の方には黒々とした屋根が続き、緑といえるものは生駒山までほとんどなかった。

 その頃の大阪の誇りは「煙の都」。「列車が大阪駅に近づくと晴れた日でも空が曇って見えます。沢山の工場の煙突から煙が立ち上っているからです」。これは大阪の繁栄ぶりをたたえる記述だった。

 確かに私の家の大屋根も、上れば足の裏が黒くなるほど煤で汚れていた。

 そんな大阪に住んだ子供だった私の楽しみは、近くの玉造稲荷神社の夜店。アセチレン灯の下で綿菓子やパチンコを楽しんだ。当時のパチンコはびっしりと沢山の針が並んでおり、指で弾いた玉はジグザグしながらゆっくりと落ちたものだ。

 50歳近い専業主婦・母の楽しみは芝居見物と百貨店巡り。千日前には洋館造りの立派な歌舞伎座があり、寿海や寿三郎らの名優がいた。松竹新喜劇につながる曽我廼家五郎の喜劇もよくはやっていた。

 百貨店回りは主に呉服、心斎橋の大丸、そごう、難波の高島屋、当時は日本橋三丁目にあった松坂屋を回り、気に入った反物を自宅に届けさせる。月末には10本ほどの中から二本ほどを買い取り、あとは返品する。それが母の楽しみだった。

 子供の私も母のお供で劇場や百貨店によく行った。ある時(小学校入学前)、松坂屋のエレベーターに木馬に乗った私の写真が飾られていた。店内写真館の宣伝用だった。

 そんな母の楽しみも1942年ごろには終わった。大阪にも「愛国婦人会」の襷をかけた女性たちが現れ、「贅沢は敵だ」と叫び出したからである。

●幼稚園の竹谷先生
 幼い頃の思い出は大抵美しい。幼稚園で習った先生は、みな美しくて優しくて賢かったように思っている。私の場合も、小学校に入る前に通った「玉造幼稚園」の竹谷先生のことは不思議なほどによく覚えている。

 竹谷先生は美しくて優しくて、毎日黒板一杯に色チョークで草花や動物の絵を書いて下さった。私は毎朝「今日に絵」を見るのが楽しみだった。

 ところが、この私の記憶には美化も誤りもなかった。当の竹谷先生から70余年ぶりにお手紙を頂いたのだ。

 竹谷先生は初代という名で現在96歳。法隆寺のある奈良県斑鳩町でご健在だ。添えられた集合写真には24歳の竹谷先生と五歳の私が写っている。先生は私の記憶通り美しく、私の顔にも「その後」を思わす個性がある。

 私も、このお手紙ではじめて知ったのだが、竹谷先生は初代吉田奈良丸の曽孫に当たるそうだ。吉田奈良丸は明治後半に活躍した浪花節家元、その門弟は60余人といわれている。大正4(1915)年に65歳で亡くなったが、法隆寺門前に大きな記念碑が建っているそうだ。

 曽孫の竹谷初代先生は、今もこの記念碑を大切になさっておられるとのことである。

(週刊朝日2014年8月22日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載4に連動)


(更新 2014/8/19 )


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プロフィール

堺屋太一(さかいや・たいち)

 1935年生まれ。本名は池口小太郎。60年に通商産業省に入省し、大阪万博をプロデュース。退官後は作家・経済評論家として活躍。経済企画庁長官を務め、現在は内閣官房参与。主な著書に『団塊の世代』(文春文庫)、『平成三十年』(朝日文庫)など

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