――その後、鳥嶋さんは93年にゲーム雑誌「Vジャンプ」を創刊する形で、一度ジャンプ編集部を離れる形になります

 こうした外の人間との付き合いがなかったら、Vジャンプは創刊できなかったでしょうね。でも、創刊編集長でいられたのも3年だけ。部数減のジャンプの立て直しで96年に週刊少年ジャンプの編集長として呼び戻されます。理由は鳥山明さんの「ドラゴンボール」に続く新連載が欲しかったから。当時の経営陣からすれば、鳥山さんの新連載が始まれば、ジャンプの売り上げも回復すると考えていたんでしょうね。でも、それは難しいと僕にはわかっていた。「ドラゴンボール」をあれだけ無理に引っ張らせた時点でもう次は描けない。

――ジャンプ編集長として、まずどんなことに取り組んだのでしょうか

 653万部という部数はもう戻らないと思っていました。それはパソコンやスマートフォンのように、一つの画面に漫画、ゲーム、アニメ全てが映る時代がやってくると、Vジャンプをやっていて確信していたからですね。そもそも、部数を増やすことに何の意味があるのか、といううっすらとした疑問も感じていました。部数増による収益だけではなく、単行本の収益、アニメ化されて入る収益の合計で勝負すればいいのではないか。「遊戯王」のヒットとかもあって、こうしたトータルの収益では過去最高になりました。

――ジャンプ編集部内のそれまでの空気をどう変えていきましたか

 もちろん、編集部内の雰囲気をもっと自由に変えたい思いがありました。まず、男子校のようだったジャンプのあり方を、農耕民族社会と狩猟民族社会を足して2で割るような感じでオープンな雰囲気にしました。外の人間が自由に出入りできたり、編集部内では後輩を無理に飲みに誘わないといったような形に変えていきました。仕事は仕事、プライベートはプライベートという意識も徹底した。結果、男子校から共学校ぐらいの雰囲気にはなったんじゃないかな。女性の編集者はいなかったけどね(笑)。

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“共学化”によって変わったジャンプの作風