鶴岡八幡宮境内にある白旗神社
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法華堂跡に残されている源頼朝の墓
法華堂跡に残されている源頼朝の墓

鎌倉幕府終焉の地「東勝寺跡」
鎌倉幕府終焉の地「東勝寺跡」

 鎌倉幕府はさまざまな理由から歴史学者たちの見解を悩ませる政権である。昭和の頃の歴史教科書では、日本初の武家政権という冠がついていたが、現代ではそれは平清盛の平家時代から始まったという説が有力であるし、鎌倉幕府の成立年すら、1180年から1192年までの間で現在でも諸説入り混じっている。最新の教科書では、平家を壇ノ浦で滅亡させ朝廷から勅許を下された、1185年が鎌倉時代の始まりとなってはいる。

●源頼朝と朝廷の関係は

「幕府」という呼び方も現在では武家政権を指す意味で使っているが、もともとの言葉が持つ意味は"将軍の本営"、つまり戦場で幕を張り陣営の中心としたことを指す言葉である。現在のような政権時代を指す言葉として「幕府」を使うことが定着したのは明治時代になってからとも言われている。

 では、鎌倉に館を構え、政権の中枢を担うこととなった源頼朝の住む場所を当時はどう認識していたのかといえば、「関東」あるいは「鎌倉殿」と呼ばれ、頼朝の住まいはその地名から「大倉御所」と記録されている。御所というのは天皇並びにその近親者の住まう場所を指す言葉であったことを考えると、朝廷との力関係が変化していったことの表れだろう。

●鎌倉時代の将軍は何人?

 鎌倉時代は、建武の新政(1333年)まで約150年続いた。だが、150年のうち頼朝の家系が将軍に君臨していたのはわずか30年あまりで、以後120年近くは北条氏による執権政治が続いた。2代目の源頼家も3代目・実朝も暗殺され、以後は公家、そして皇族が鎌倉時代の征夷大将軍になっている。将軍だけを見れば武士の政権ではないが、もちろんご承知の通り実権を握っていたのは、頼朝の妻・政子の実家である北条氏なのだから、武家政治は続いていたのである。

 150年で9人の将軍がいるのだが、日本の教科書に鎌倉時代の将軍の名がいったい何人出てくるだろう。もしかしたらこれからは頼朝だけになってしまうかもしれない。

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