戦況が悪化する中、鎭子は新聞社の社員として編集作業ばかりではなく、発送もこなした。食糧事情は悪くなる一方で、着物や日本人形を売り、農産物を手に入れるなど、苦労の日々だった。そして終戦を迎える。
戦後、日本読書新聞の復刊第1号を出すにあたり、作家・川端康成に原稿を依頼するなど若いころから編集者としての手腕を発揮した。焼け野原となった東京で鎭子が雑誌「暮しの手帖」を創刊しようと思ったのは、1946年。上司である田所太郎編集長に相談した。
「自分がなにかしなくてはと、いろいろ考えましたが、私は戦争中の女学生でしたから、あまりにも勉強もしていなくて、なにも知りません。ですから、私の知らないことや、知りたいことを調べて、それを出版したら、私の歳より、上へ五年、下へ五年、合わせて十年間の人たちが読んでくださると思います。そんな女の人たちのための出版をやりたいと思いますが、どうでしょうか」
当時、鎭子が創刊を思い立った直接的な理由は、母や妹の生活を支えるためであったそうだ。田所の友人で挿絵の仕事をしていた花森安治を紹介され、花森、鎭子・晴子・芳子の三姉妹と横山啓一で衣装研究所(現・暮しの手帖社)を設立し、「暮しの手帖」の前身となる雑誌「スタイルブック」を創刊。48年には花森編集長の下で「美しい暮しの手帖」(後の「暮しの手帖」)を創刊した。
商品テストの結果や、浴衣をワンピースやテーブルクロスなどに仕立て直すアイデア、ホットケーキをおいしく焼くこつなどが掲載された「暮しの手帖」は、家庭の日常を安全で美しく過ごす知恵にあふれている。ドラマを通じて、家事に励む祖母や母の若かりしころを思い出す人も多いのではなかろうか。
花森をモデルとした花山伊佐次を唐沢寿明が演じるようだ。花森は編集者やグラフィックデザイナー、ジャーナリスト、コピーライターなどとして活躍した多才な人物。一時期、長髪にパーマをかけ、“スカートのようなもの”をはいていたという証言も残る。ユニークな伝説の編集者を、唐沢がどう演じるかも興味深い。
初回の視聴率22.6%は、好評を集めた前作「あさが来た」を上回る好発進で、2000年以降を振り返れば、01年後期「ほんまもん」の23.1%に次ぐ。「とと姉ちゃん」の放送により、鎭子の人生や今日の「暮しの手帖」にも注目が集まるに違いない。
(ライター・若林朋子)