岩手県では、「地域の思いを尊重する選択肢を残す」との姿勢で計画作りを進めた、と震災当時の県土整備部長、若林治男さん(66)は言う。ただ、「国の基準に合わないと国費が出ない」という事情も無視できなかった。
一方、環境や景観への配慮を求める声も住民の中に増え始めた。宮城県最大の海水浴場とされた気仙沼市の大谷海岸では高さ9.8メートルの防潮堤が計画され、砂浜消滅の危機にあったが、住民組織が「防潮堤をセットバック(後退)して国道と一体化する」構想を提案。5年がかりの交渉の末、砂浜を守った。
復興事業621カ所のうち、高さを下げたり、位置を変更したりするなどの見直しが行われたのは197カ所に上る。だが、雄勝では反対の声は届かなかった。宮城県でも大谷海岸のように住民合意などの条件を満たせば「特例」で計画変更を認めるケースがあったが、雄勝で問題となったような町の中心部では、特例は認められなかった。
■住む場所をめぐる選択は 「誰と生きるか」の問い
震災後、被災者たちが直面したのは、どこに住むか、どう暮らすかという住まいをめぐる難問だ。
雄勝では、震災前約4300人いた人口が1100人に減った。町を離れたある被災者はこう吐露する。
「家があったから雄勝にいた。家がなくなった以上、戻る理由がない」
11年秋の調査で、地区内での再建を希望した被災世帯は約42%。そして、防潮堤建設による復興の遅れと景観破壊がさらなる再建断念や転出をもたらした。残った人口の57%は高齢者だ。
高橋さんのように変わりゆく街に翻弄され、決断を迫られた人がいる一方、住む場所をめぐる選択は「誰と生きるか」という問いでもあった。街を二分する巨大事業に直面しなかった地域でも、多くの人が難しい選択を迫られた。
宮城県の都市部に住む80代の女性に会いに行った。住宅街に立つ集合住宅型の災害公営住宅。入居者は様々な地区から集まり、旧知の人はいない。