全部で10回の審判のうち、実は残る3回はいわば再審に相当し、基本的には7回目の泰山王の決定によって結審する。現代でも「49日」の法要を、死者を悼むひと区切りとするのはこのことが由来となっている。考えてみれば、35日目の審判をする閻魔王よりも、結審を司る泰山王のほうが死者にとっては重要な王といえるかもしれない。

「百か日」「一周忌」「三回忌」の法要もそれぞれ平等王・都市王・五道転輪王の審判に当たり、遺族が死者の減刑を望むものに他ならない。そして、十王たちは、死者の生前の行いから罪の軽重を量ると同時に、遺族からどれほど供養されているかも審理の対象とする。重い罪を犯していても、遺族から手厚い供養があれば、多少の減刑がなされる。現代風にいえば、情状酌量といったところだろうか。

 これについて研究者たちは、「十王経」自体、遺族に複数回の法要を行うよう説く目的で成立したものと考えている。細かいスケジュールが決まっているのは、実は亡者のためではなく、遺された者たちが法要を行うことにより、仏教と深く結びつくようにするためなのだ。そしてそれはもちろん、死者への思いを深くすることも目的とし、遺族のグリーフケアも兼ねそなえていたと言えるだろう。

『預修十王経』も『地蔵十王経』も「偽経」(「擬経」とも書く)だということがわかっている。

「偽経」とは「梵文(サンスクリット語の本文)」を持たない経典のことで、仏教の成立以後、中国や日本で勝手に作られた経典のことである。

 だが「なんということだ、私たちは僧のお金儲けのために騙されて法要をやらされていたのだ!」――などと早まってはいけない。

「偽経」というのは「ニセモノ」という意味ではなく、「後世に作られた」という意味であって、決して悪意あって作られたことを指すわけではない。「十王信仰」が生まれていく、その時代の機運の中で、誰かが遺族にとっての必要性を感じて編集したものだ。仏教においては、生前に善い行いをして功徳を積むことが重要視されるが(仏教に限らず世界的な宗教は大抵がそうだろう)、日々行われる仏事をわかりやすくマニュアル化したのである。