半世紀ほど前に出会った99歳と85歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「今の状況を52年前に予知していたんです」
セトウチさん
夕べセトウチさんと電話で話している夢を見ました。難聴なのによく聴こえるなあと思いました。セトウチさんはいつものように早口で忙しそうに話しておられました。テレビ電話じゃないのにセトウチさんの話しておられる顔がアトリエの空間に映し出されていましたが、得度時の若々しいつるつるした顔でしたよ。
つい先っき担編の鮎川さんから質問要項が届きました。今、東京都現代美術館に展示されている<赤い故郷>など、赤い色の絵について「赤」とは、そして「色彩」とは、との質問です。イヤー、自作を語るってのは結構難しいんですよね。気がついたらこんな絵になっちゃっていた、わけですから。僕は元々、色音痴なんです。中間色を上手に使う知的な絵に憧れるんですが、その知的さの欠如で、どうしても、ワーッと大声で叫ぶラテン系の原色になってしまうんですよね。赤、青、黄、黒が中心で、お祭りみたいなハデハデな色になってしまって評論家は土着といいますが、土着なんていい方で差別などして貰いたくないんです。もっと最悪なのはサイケです。サイケデリックの体験もなく、その何たるかも知らずに安易に風俗化させちゃう低俗な批評にはうんざりです。
さて、<赤い色>だったですね。赤をよく使うのは色の持つ強度というか訴求力ですかね。赤は火や血や太陽や生命を暗示する能動的な色です。だけど僕の赤い風景画の赤は実は夜空なんです。満天の星が輝く赤い夜空なんです。青空に対する補色としての赤い空です。この赤い夜空は、戦時中、神戸や明石が空襲にあうと、山の向こうの黒い空が一瞬、パッと真赤に染まります。だから僕の赤い空は空襲で焼けた空の色なんです。僕の絵は死を直接描かなくても、そこに表象されるものは死の感情です。色は僕の中で全て感情に変換されます。文章で喜怒哀楽を表すかわりに色彩が感情を一瞬に伝えます。文章より便利いいでしょ。しかも観賞者が自分の感情で創作するのです。