東海寺大山墓地にある沢庵和尚のお墓
東海寺大山墓地にある沢庵和尚のお墓

沢庵の説く禅の心

 沢庵は、生涯にわたり名利を拒否し、出世や役職を辞退し続けた。江戸時代の記録書「耳袋」には「人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い」と沢庵が壁書した写しが残っている。欲しがれば、どこまでも人は欲が出るという意味だろうか。「心さえ潔白であれば」という生き方を貫く沢庵は、流刑先でさえ、土地の藩主などから帰依を受け、相談や助言などを与えている。そして、家光もまた、沢庵に深く感銘を受けるのである。

沢庵を江戸に留めたかった家光の案は

 家光は沢庵を江戸へ呼び寄せ、品川に東海寺を建立、住職になってくれと依頼する。沢庵はかなり固辞をしたようだが、紫衣事件のきっかけとなった法令なども元に戻されることになり、ある意味、沢庵が江戸で人質になる代わりに京の仏閣の権利が復活したとも言える扱いだったようにも見える。それでも、家光は足しげく品川を訪れ、沢庵との会話を楽しんでいたようだ。

たくわん漬を家光に提供した理由

 ある時、家光が「最近おいしいと感じるものがない」と沢庵にこぼした。「それでは明日、おいしいものをご用意します」と沢庵。翌日、指定の時間に出向いた家光は、茶室で茶を振舞われるも、肝心の食事はいつまでたっても出てこない。お腹が空き過ぎた家光が流石にがまんできずに席を立とうとしたその時に、沢庵が運んできた御膳には湯掛けの白米と2切れの黄色いものだけ。それでも空腹の家光は椀を抱えてガツガツと満腹になるまで食したとか。その後「この黄色いものはなんだ」と沢庵に家光が問うと、「大根の粕漬けで、たくわえ漬けでございます」と答えたとか。重ねて「以後、空腹になってから食事をするとよいのでは」とも。

実は家光が名づけ親?

 その後、家光は怒るでもなく「美味じゃ」と応じた。この漬物が「たくわん漬」なのだが、その時家光が「沢庵の漬物だから沢庵漬けと称せ」と言ったとも、また、たくわえ漬けがいつしか変化したとも言われている。さすがに東海寺では、「たくわん」と呼び捨てにすることはできず、この漬物は「百本」と呼ばれているとか。

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