家光と沢庵の禅問答

 北品川駅から少し歩いたところに「問答河岸跡」という碑が残っているが、これは家光が東海寺を訪れる際に船を寄せた波止場の名残である。品川沖は随分埋立が進んだため、碑のあるところから海などまったく見えないが、これは沢庵が家光を出迎えた際の禅問答に由来している名だ。

「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」と問うた家光に対し、「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と沢庵が返した、という。この話は、「徳川実記」に記されている。

一介の僧として扱ってくれ

 江戸時代、東海寺は徳川幕府の手厚い保護を受け、広大な寺領を有していたが、明治時代になりそのほとんどを政府により接収され衰退した。本堂も失い、現在は元子院のお堂を元に再建されている。このため、沢庵和尚の眠る東海寺の墓地はお寺に隣接しておらず、徒歩で7~8分ほどかかるJR東海道線に区切られた西側に位置している。沢庵は、故郷に帰ることも、住職を辞することもできずに、結局、江戸で没した。死に際し、「夜間に密かに担ぎ出し地に深く埋めよ。いっさいの痕跡を残したり伝記や肖像画も無用」と遺言したが、東海寺と8年過ごした故郷の宗鏡寺にお墓は残っている。

 そして、意に反して、和尚の名だと意識しないままに日本一有名な漬物の名となった。本日、12月11日(旧暦)は、沢庵和尚の命日にあたる。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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