夏の終わりにこんなことがありました。子どもが通う幼稚園で泥遊びをすることになり、「汚れてもいい服を持たせてください」と園から連絡があったのです。私は汚れてもいいというんだからもう捨ててもいいくらいの服でいいのだろうと思って、この夏じゅう大活躍して死にかけのセミみたいになっている半袖半ズボンを持たせたのですが、周りの子を見るといやにパリッとした服を着ている。汚れてもいい服装というのは、どうも泥汚れが目立たない黒や茶系統の服ということだったようなのです。いや、園がそう想定していたかはわかりませんが、少なくとも親たちの間ではそういう共通認識があったようで、一人みすぼらしい格好をした我が子にすまんと心のなかで頭を下げました。
他にも、「私には荷が重くて」という謙遜を言葉通り受け取って「それなら結構です」と断ってしまったり、「おたくのお子さんたち随分元気なのね」という注意を言葉通り受け取って「ありがとうございます」とお礼を言ってしまったり、失敗は枚挙にいとまがありません。気づいていないものはもっとあるんだろうなと思うと、消えてなくなりたくなる気分です。
言葉が字義通りの意味を持たないという傾向は、閉じられた小さな空間であるほど強まるようです。アメリカ南部は、アメリカの中でも地元住民が多く住む土地。日本も、在留外国人数こそ増加しているものの移民との共生が実現しているかというとそうは思えない。そんな場所では、言外の意味のコミュニケーションが発達します。そしてコミュニケーション最難関の場所のひとつが、日本の幼稚園ではないかと個人的には思います。
職場や学校と比べると、ごく限られたメンバー、独自の世界観で営まれるクローズド・サークル。『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本がありますが、私は今まさに、人生に役立つ非言語コミュニケーションをすべて子どもの幼稚園の園庭で学んでいる状況です。日本語とそれにまつわる非言語コミュニケーションを学びたい人は今すぐ幼稚園に行ってみるといいと思うのですが、それは少々言い過ぎでしょうか。
〇大井美紗子(おおい・みさこ)
ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi
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