朝廷が「惣官」「征東大将軍」「上将軍」「征夷大将軍」のなかから吉例という事で征夷大将軍を選び、任命したのだ。つまり、頼朝の征夷大将軍就任は、偶然の要素が強い。ちなみに、惣官は治承五年(1181)に平宗盛が、征東大将軍は寿永三年(1184)に木曾義仲が任命されていた。何れも頼朝追討のために任命されたもので、不吉とされたのだ。さらに上将軍は、中国の事例であるとして除かれ、最終的に平安時代初期の武将・坂上田村麻呂が任じられた征夷大将軍が良いということで、頼朝は同職に任命されることになったという。
頼朝は、建久元年(1190)に上洛した際、貴族の九条兼実に自らを「朝(朝廷)の大将軍」と称した(『玉葉』)。木曾義仲、平家そして奥州藤原氏を滅ぼした今、朝廷を守護するのはもはや自分のみという自負をこの言葉から感じることができる。よって「朝の大将軍」に相応しい官職を、頼朝が朝廷に希望したとしても不思議はない。頼朝は、鎌倉に居住していても就任可能な、公卿に相応しい官職を求め、それが結果的に征夷大将軍の就任に繋がったのだ。しかし、征夷大将軍という官職も幕府首長の官職として確立していた訳ではなく、頼朝の嫡男・頼家が同職を継いだのは、頼朝の後を継いだ3年後の1202年の事であった。
こうした事を踏まえると、確かに征夷大将軍就任をもって幕府成立と解釈するのは難しいだろう。幕府成立は、年代が確定できるものではなく、治承・寿永の内乱の過程で、徐々に頼朝を中心とする権力機構が成立していったのである。
こうして成立した幕府という権力機構の根本は、将軍と御家人との主従関係にあった。将軍から御家人に与えられる御恩と、それに応える御家人の奉公が、幕府の活動を支えていたのだ。御恩の代表的なものは所領の給与である。また、将軍の推薦により、朝廷の官位を与えられることも御恩の一つとされた。御家人の任官を取り扱う官職として官途奉行があった。一方、御家人の奉公は、将軍の命により、戦場に馳せ参じること、そして内裏の警備などである。さらには、将軍御所の修理や造営も御家人に割り当てられた。費用の負担などが求められたのだ。