69年夏、丹後半島で事務所のレクリエーション中に(撮影・水谷紀久雄)
69年夏、丹後半島で事務所のレクリエーション中に(撮影・水谷紀久雄)

 リンドのレコードデビューは67年2月15日。寺山修司が作詞を手がけ、加賀の繊細なボーカルを前面に押し出した「ギター子守唄」は大ヒット。翌年の「銀の鎖」「夕陽よいそげ」とスマッシュヒットを飛ばし、雑誌のGS人気投票でもたびたびトップ10入りした。関西に拠点を置きながらも全国的な支持を得て、一時は映画やドラマ出演の計画もあったという。しかし69年以降のブームの退潮と共に徐々に人気に翳りが見え、70年には解散状態に。

 その後も加賀は、新グループ「加賀テツヤとマッシュルーム」で2枚のシングルを発表。74年には「ユグドラジル」名義で桑名正博らと共に名盤と言われるロック・コンピレーションアルバム「INTRODUCTION 1」をリリースした。ターゲットプロの後輩でギタリストの岡田幸夫は当時の加賀について「イギリスのジェスロ・タルの影響で、フルートを持って歌っている時期もありました。腰下までの長髪、火消しの法被、フルート入れをサーベルのように腰に吊るして格好良かった。元GSということで一部のロック勢からは敬遠されていましたが、よくモテてグルーピーみたいな人が大勢いました」。

 しかし作品はいずれも商業的成功にはつながらなかった。生活も乱れ、大麻所持で逮捕される。79年には追われるように渡米した。

 ロサンゼルスに8年、ニューヨークに7年。失意の加賀は米国でアルコールに薬物と、日本以上の破天荒な日々を過ごす。ライブハウスに通う中でできた友人たちからは「BAKUDAN」と呼ばれていたそうだ。

 一方で当時の加賀については、こんな話もある。「ロスで83年ごろに知り合ったという人によると、当時の加賀さんは日本車の修理工場で修理工をしていたそうで『加賀さんのことは知らなかったが、僕の車を親身に修理してくれてとてもお世話になった。人生の中で出会ったことのないような素敵な人だった』と聞かされ『そうでしょう!』と胸が熱くなりました」(前出の水谷さん)

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