1968年11月のビラ守口プールでのライブ(撮影・水谷紀久雄)
1968年11月のビラ守口プールでのライブ(撮影・水谷紀久雄)
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 1960年代後半に若者たちが巻き起こしたグループサウンズ(GS)ブーム。彼らはいかに時代の寵児となり、ブーム後をどう生きたのか。不定期連載第1弾の主役はザ・リンド&リンダースのボーカリスト、加賀テツヤ(2007年没)。

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 暗く重苦しい第2次大戦が終わり20年。新しい文化や思想が百花繚乱するなかでGSブームは巻き起こった。加賀テツヤは関西の雄として知られたザ・リンド&リンダースで圧倒的な人気を誇ったボーカリストだ。

 1946年生まれ。京都市の裕福な家庭の次男として育ち10代で音楽の道へ。生来の人当たりの良さと、オリエンタルな浅黒い肌に端正な面立ち。加賀は当時の若者の屈指のプレイスポットだったダンス喫茶「田園」に出入りするようになると、早くから注目を集めた。

 66年にリンドを率いて大阪に進出した加賀は芸能プロダクション「ターゲットプロ」に所属した。当時人気絶頂だった坂本スミ子の音楽番組「スミ子と歌おう」(MBS)にレギュラー出演するや、一躍関西中の少女たちのあこがれの的に。「今でいうジャニーズみたいな感じですかね。私も一目見るなり好きになって、多くのコンサート会場に足を運んで『テッちゃん! テッちゃん!』と声がかれるほど叫んだもんです。夜8時を過ぎると追っかけをするファンたちに『危ないから早く帰りな』と声をかけてくれる優しい人でした」と、ファンクラブ「リンド友の会」3代目会長の有子さん。ファンクラブで写真撮影のアルバイトをしていた水谷紀久雄さんも「スターでしたが、気取ることのない人でした。屋台のおでんをごちそうになったり愛車のロータスでドライブに連れていってもらったりしたのを思い出します」と、加賀の人柄を偲ぶ。

 リンドと言えば同じく京都出身でデビュー前、ファニーズと名乗っていた頃のザ・タイガースとの交流が有名だ。それぞれ加賀、沢田研二という個性的なフロントマンを持ち、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」では一番人気を争う良きライバルだった。リンドで加賀と共にツインボーカルを務めた榊テルオは「みんな京都時代からの仲間内。ファニーズが大阪進出してきた時、うちのベースの宇野山(和夫)さんが住んでいた岸里(大阪市西成区)のアパートを紹介したんです。彼らが内田裕也さんを通して渡辺プロにスカウトされた時も相談を受けました。かれこれ知り合って60年近いですが、今も交流は続いています」。ザ・タイガースの瞳みのるも、「ファニーズもターゲット(プロ)から仕事をもらって活動していました。初舞台はリンドの前座だったし、いろんな場所で共演しましたね。僕たちも関西を拠点に活動しようかという話もあったんですが、ターゲットにはもうリンドがいる。松竹芸能からも引きがあったけどお笑いみたいなことをさせられたらどうしようと。それでやはり東京を目指そうとなったんです」と当時を振り返る。

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