谷川:そうですね。すべての言語には「隠喩」や「例え」がすでに内蔵されている、と言う人もいますよね。つまり言葉は使い方によって常に「詩のほうに逸脱していく」感じがします。

飯間:どんな言葉も、本質的に「詩の部分」を持っていると。今ふと思い出しました。ある秋の日に道を歩いていたら洋品店の店先に「マフラー 秋のおでかけ」と書いてあった。私はそのときなぜか、妙に心を打たれたんです。この気持ち、おわかりいただけますかね?(笑)

谷川:マフラーに限らず、人にはその言葉の持つ日常的な意味から離れ、そこに隠れている比喩性や例えを感じてしまう能力があって、何かスイッチが入ると何でもない言葉に感動してしまうことはありますよね。

飯間:一方で、谷川さんは「言葉を信用していない」のでは、と感じることがあります。昨年出された詩集『虚空へ』では、言葉がことごとく「信用ならないもの」として扱われている。

 例えば「言葉にならないそれ」では、「名づけてはいけない/それを/惑わしてはいけない/言葉で」と。何かに名を付けることによって実物と違ってしまう、ということでしょうか。あるいは「なおヒトは/語と語で/色を/切り分ける」。色というものは実際には黄色から緑へという具合にグラデーションがあるはずなのに、言葉で切り分けてしまうと。他にも「文字で/読みたくない」「言葉は/騙(かた)り」など、言葉に強い不信感をお持ちのようにも感じました。

■悩みのなかで辞書作り

谷川:おっしゃる通りです。詩を書き始めた頃から、言葉になったものが、自分が見て感じて、聞いている現実とずれていると感じるようになったんです。詩とは多義的で、曖昧(あいまい)な言葉を使うものであるにもかかわらず、何か実際のものと違うと。

 例えば「机」という単語。現実の机の手触り、機能、色やにおいなど机の持つ全体性を漢字1文字で言ってしまうことに違和感がありました。現実とはもっと複雑怪奇で五感に訴えてくるものなのに、言葉になるとほとんど目に訴えるだけのものになってしまう。逆に言うと目に訴えるだけのものにいかに実際の感触を与えるか。そこに詩の役目があるとも考えていました。

飯間:私も日常生活で言葉を発するとき、よく感じるんです。自分が今使っている表現はどうも「真実を突いていない」と。

谷川:辞書をお作りになるときもそういう迷いはありますか?

飯間:「この言葉ではないな」と、始終その悩みのなかで辞書を作っています。最近も「あの先生は権威がある」という場合の「権威」を説明しようとして、どうもうまくいかない。優れた能力があって皆から尊敬や信頼を得る力、かなとも思いますが、じゃあ(元大リーガーの)イチローさんに権威があるかというと本人はむしろ嫌がりますよね。なるべく実際の言葉に迫る説明を書こうと思いつつ、多くは失敗して、の繰り返しです。

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