4月6日は語呂合わせで「しろの日」です。白の日でもあり城の日でもあるということで、今日は日本で最も白くて美しいとされる、世界遺産でもある姫路城についての豆知識をご紹介します。姫路城の存在は知っていても、その歴史までは知らない人が多いかと思います。
職場や学校などで誰かに話したくなる情報を盛り込んだ内容になっていますので、ぜひ歴史の勉強もかねて姫路城について学びましょう。
戦国時代は黒田官兵衛や豊臣秀吉も城主に
姫路城は1333年、播磨国守護であった赤松則村が護良親王の命を受け、京都に向けて挙兵する途中、姫山に砦を築いたのが始まりとされています。歴史の授業が苦手だった人は、この時点で脱落しそうですが、1333年というのは鎌倉幕府が滅亡した年です。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、打倒鎌倉幕府を掲げて楠木正成と共に挙兵します。そのときに令旨を受けた武将の1人が赤松則村です。この当時の姫路城はまだ小さな砦でしたが、1346年に赤松則村の次男である赤松貞範が本格的な築城をします。
その後、赤松氏に属する小寺氏が城代を務め、1545年に家臣である黒田重隆に城を預けます。この黒田重隆の孫にあたるのが天才軍師、黒田官兵衛(黒田孝高)です。黒田官兵衛も姫路城の城主となりますが、豊臣秀吉が中国攻略を行うときに、黒田官兵衛が豊臣秀吉に姫路城を献上します。
姫路城が現在の形になったのは、関ヶ原の戦い後のことです。豊臣七将の1人である池田輝政が姫路城主になり、1601年に西国を監視するため姫路城の大改築を始めます。9年の歳月をかけて完成したのが、白鷺城とも呼ばれる荘厳な姫路城というわけです。
【参考】
姫路城の歴史|姫路城
大空襲でも無傷だった姫路城
姫路城が世界遺産に登録された理由のひとつが、17世紀に建てられた天守閣など建造物や、建築物が良好に保存されている点が評価されたためです。日本で江戸時代以前から現存する天守は12基しかありませんが、姫路城はその貴重な12基のひとつです。
そんな姫路城も、第2次世界大戦で焼失の危機に合います。1945年の姫路大空襲により、姫路市は全市街地の76.7%が焼け野原になりました。このとき米軍機のレーダーが姫路城の堀を「水面」と判断し焼夷弾を落とさなかったため、姫路城は消失を免れました。
事実の確認はできませんが、天守閣には不発弾が残っていたという逸話もあり、本来なら戦争で失われていてもおかしくありません。戦後しばらくは「文化価値を評価して、標的から外した」とされていましたが、偶然もしくは奇跡的なめぐり合わせで現存しています。
空襲で大きな被害にあった姫路ですが、戦後の復興に勇気を与えたのが空襲を乗り越えた姫路城の存在です。お城以外に何も残っていない焼け野原からの復興は厳しいものでしたが、多くの人が姫路城から勇気をもらい、見事に戦後の復興を果たしました。
【参考】
なぜ大空襲で姫路城は無傷だったのか 奇跡の歴史を探る|神戸新聞
そして城は残った~米軍資料の研究から(下)奇跡の真相|神戸新聞
真っ白な姿こそが本来の姫路城
姫路城は2009年から2015年まで大天守保存修理工事が行われました。このときの姿を見て「白すぎる」と思った人もいるかもしれませんが、実は現在の真っ白な姿こそが、本来の姫路城の姿になります。
80,506枚の瓦は再利用できるものとそうでないものをすべて選別していますが、その多くが同じものが使われています。ではなぜ、驚くほど白くなったのかというと、瓦と瓦の継ぎ目に漆喰を施しているためです。もちろん以前の瓦にも漆喰が施されていましたが、漆喰は時間の経過で変色するため灰色に見えていました。
ということは、現在の姫路城も徐々に白さが失われていくということです。施工から5年程度でまた以前の色に戻るということですので、そろそろ灰色になっているかもしれません。そうなると見に行きたくなるかもしれませんが、こういう状況ですので今はSNSなどで確認しましょう。
ちなみに姫路城は「しろの日」にちなんで、4月6日に姫路城などの施設を無料開放していましたが、2015年からは世界遺産登録日である12月11日を無料開放日としています。今年の12月11日は土曜日ですので、状況が改善していることを期待しましょう。
【参考】
屋根の色が変わっていく? 世界遺産 姫路城の屋根修理のヒミツ|日鉄鋼板株式会社