この本の章は全て、「咲く」「つなぐ」など、動詞から膨らんでいく。一つひとつの言葉から、季節の野菜で作る料理のこと、お別れをした友人たちの懐かしい言葉、政治家たちの振る舞いやフェミニズムまで、落合さんは細やかに思いを巡らせていく。
若い頃は時代の鋳型(いがた)にはめこまれることに抗(あらが)い、もがき、いつも走っていたのだと落合さんは振り返っている。もしかするとそんな日々の中で、人は言葉の意味をいつの間にか「分かったつもり」になってしまうのかもしれない。抗うって、どういうことだったろう? 祈るって、どんな意味を持つ行為だろうか? ふと立ち止まって考えてみると、言葉はいくらでも深められることに気づく。
思えばこの7年8カ月、政権下では「言葉」本来の意味が強引に削(そ)がれるようなことが続いていった。責任を「痛感」すると繰り返しながら、果たそうとはしない首相の下、そもそも「責任」とは何を指す言葉なのかということさえあやふやになろうとしていた。「募ってはいるけれど、募集はしていない」という、説明にも言い訳にもならないような答弁まで飛び出した。言葉遊びで市民を弄(もてあそ)ぶことがあってはならないはずだ。だからこそなおさら、落合さんの日々そのものが、言葉を刻みなおすための投げかけだった。それも、「動詞」という意志の宿る言葉で。
この本を読み進めながら、長崎で被爆し、現在は日本原水爆被害者団体協議会事務局長を務める木戸季市(きどすえいち)さんの言葉を思い出した。被爆した当時、木戸さんは5歳。80歳を超え、今の自分の日々を「人生の仕上げの時」だとおっしゃっていた。それは「完結させる」というニュアンスとは少し違っていた。閉じるのではなく、開いていく、そんな意味合いだった。
落合さんが『明るい覚悟』の中で紹介している絵本の中に、スーザン・バーレイの『わすれられない おくりもの』がある。ここに登場するアナグマは物知りで、森の動物たちから頼りにされていたという。けれどもアナグマは、自分の人生が終わりに近いことを知っていた。落合さんはそのアナグマの生き方についてこう触れている。「けれど彼は死ぬことをおそれてはいなかった。身体はなくなっても、心は残ることを知っていたから」、と。アナグマが亡くなってから、多くの動物たちが口々に彼のことを語った。教わったハサミの使い方、スケート、生姜(しょうが)パンの焼き方……アナグマが教えてくれたのは小手先の技術ではなく、暮らすことの意味と意義だったのではないか、と落合さんは語る。
きっと、木戸さんが残した言葉は、受け継いだ多くの人々がこれからも分かち合っていくのだろう。重ねてきた月日と向き合い、落合さんがこうして綴ってくれた言葉も、だ。そう考えると「明るい覚悟」の先にあるのは、「開かれた仕上げ」なのかもしれない。