一升瓶を手に議論し男だけで決めては「まちづくり」は偏る
子どものころは、先頭に立って動く方ではなかった。面倒見のいい人に包まれ、苦労した記憶はない。でも、大分市の県立高校から東京の大学へいき、卒業して帰郷して、95年に玉の湯の専務に就いたころから、積極的に取り組んだことがある。「まちづくり」への女性たちの参加だ。
何事も決めていたのは、父の時代と同様に男たちだけだった。一升瓶を手に夜遅くまで議論し、女性の姿はない。それでは「まちづくり」が偏っていく。児童クラブをつくるにも、女性たちが声を上げないと、誰もしてくれない。だから「まちづくり」へつながる会議は昼に開き、女性が子どもを連れて参加できるようにした。同じ思いの人を探して、議論の輪へ入ってもらう。『源流』からの流れに、新しい水が加わっていく。
『源流Again』の前日、「まち」を見下ろし、見守ってきた由布岳がよくみえる山あいへいった。何か迷いがあると、ここへ上がる。夕暮れの由布院がきれいにみえて、「これが私の『まち』だ」と思い、自分の迷いなどちっぽけなことだ、と気づく。心が折れそうなときも、ここへくれば「大丈夫」と頷く。
この日は風雨が強く、「まち」はみえない。でも、晴れた日も雨や強風の日もあるのが自然で、それで由布院の価値は変わらない。この日の風雨は、その確信度を試していたのかもしれない。そう思うと、笑みが浮かぶ。
実は、コロナ禍のころ、東京と福岡の病気の人から2組の予約があった。病院で「余命は1週間」と言われた人が「旅で最期を終わりたい。由布院の玉の湯へいきたい」と言ってくれた、という。東京の人はくる前に亡くなってしまったが、福岡の人はきて、旅を終えた後に亡くなった。
そのとき、「人は、こんなにも旅をしたいのだ。それが可能なように、やれることがあるのではないか」と思う。何度かみたドイツの保養温泉地に、医療も備えたホテルがあった。「あれをつくろう」と、昨年1月に介護や看護の資格を持つスタッフを置いた「STAY 玉の湯」を開く。『源流』からの流れに、また新しい流れが加わった。
素敵な人たちに会える「まち」、本気度が行き交う「まち」。玉の湯は、その心の宿になる。『源流』からの流れは、止むことなく続く。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2025年8月25日号
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