
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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若い知人から「どうしてSNSでは人々はあれほど攻撃的な言葉づかいをするようになるんでしょうか?」という質問を向けられた。どうしてなのか、私にもよくわからない。でも、その現象の一部についてはこんな説明ができると思う。
SNSで多くのフォロワーを獲得したければ、できるだけ「誰でも言いそうなこと」を語るのが捷径である。定型的であればあるほどよい。現に、本当に個人的な、「自分以外には誰も言いそうもないこと」をSNSに書く人はまずいない。その作業のためには高度な言語能力が必要だからである。情理を尽くして、読者の袖をとらえて語り掛ける文体を持っていなければ、「誰も言いそうもないこと」を読んでもらうことはできない。でも、そんなことをする人はSNSでは圧倒的少数派である。
ネットで飛び交う言葉のほとんどは定型的な罵倒と呪詛の言葉である。でも、その発信者が匿名にとどまる限り、読む人の肺腑をえぐるような激烈な罵倒や呪詛を以てしても、心の奥底にわだかまる「本当に個人的なこと」を語ることはできない。
私たちは自分の中に誰もが「人に知られたくない邪悪な、非道な思い」を抱え込んでいる。これにはほぼ例外がないと思う。私たちは日々その自分の邪悪さや卑しさや弱さに向き合い、そういうものを抱えている自分を引き受けて生きている。そして、その内的葛藤が私たちを少しだけ複雑な人間に仕上げてくれる。
でも、SNSで「人に知られたくない内なる邪悪さ」をできあいの定型句に載せて「汚物」のように気分よく排泄してしまうと、その人は「本当に個人的なもの」とたった一人で正面から向き合う機会を逸してしまう。おのれの邪悪さや卑しさや弱さをみつめ、それを引き受けることを拒んだ時、そこに「空洞」が穿たれる。
最近、「空虚な人」という以外に形容のしようのない人を見かけるようになった。目の奥に「何もない」のだ。
彼らはたぶん人生のどこかで自分の邪悪さや愚かさや弱さと向き合い、それを引き受けることを拒絶したのだと思う。その内的な空虚が表情や発語にまで露呈しているように見える。
※AERA 2025年6月2日号
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