自分が言ったことが間違っているとは思わなかったが、暴言は、明らかに礼を失していた。月曜日の朝一番に部長に非礼を詫びよう、それで許されるとは思わないが、その先は何があっても仕方ない。そう決めた。
「金曜日はたいへん失礼しました。あんなことを申し上げて」と謝ると、部長は「いや、担当する業務で自分が正しいと思っているなら、謝ることはない。これからもその意気で邁進してくれ」と言って、おしまいだった。上司の在り方を、学んだ。自分の仕事へ向かう姿勢も、確立した。部長は以降も信頼して使ってくれたし、社長になっていたときに呼ばれて「きみを執行役員にする」と言われた。
1956年4月、新潟県直江津市(現・上越市)で生まれ、父は東京で化学メーカーに勤めて、直江津の工場にいた。母は元・小学校教員の一人息子。幼稚園の卒園前に父の転勤で東京都へ引っ越して小学校3年生までいたが、父がまた直江津工場へ戻り、4年生と5年生は社宅から市立直江津小学校へ通う。
海が社宅から近く、夏は水着で歩いていった。海岸は海水浴場となり、浜茶屋が出た。冬の荒い表情も含めて、海への思いは強い。必ずしも苦しいときにではないが、よく目に浮かぶのはビジネスパーソンとしての『源流』を生んだ日本海だ。
理科が苦手で言って母が唖然とした「チューリップは秋」
6年生になるとき父が再び東京へ異動し、2度目の東京へ。区立の小・中学校から東京教育大学(現・筑波大学)付属高校へ進み、大学受験で1年浪人した後に東京大学文科I類へ入って法学部を選ぶ。父は技術者だったが、自分は小学校のころから理科が苦手。「チューリップは秋に咲く」と言って、母を唖然とさせた。そんなだから文科系だと思い、法学部にした。
80年4月に住友信託銀行へ入社。父に「お前みたいな人間にメーカーは厳しいから、銀行がいい」と言われていた。配属先は新宿支店で、約2年、個人向け金融商品「貸付信託」の外勤営業をした。毎朝、独身寮から出社し、黒い鞄に書類、ビニール袋に契約の礼に渡すタオルやティッシュを入れ、新宿周辺の地域から始めた。次に小田急電鉄の沿線を西へ進み、多摩川を越えて神奈川県までいった。
郵政省へ出向して知った段取りなど「霞が関流」の仕事
午後5時までに支店へ戻り、事務手続きを終えると、上司や先輩との飲み会だ。成績は地味で、このころまでは内向きのところが出て「荒々しさ」は隠れていた。でも、客や先輩に鍛えられ、自ら「最も変わった時期で、おかげで誰とでも話せるようになった」と振り返る。