アンテナを立てると、短波放送を聴くことができたし、海外の放送も入った。何をどういう周波数で聴いたかを書く用紙を放送局からもらい、送ると受信の確認を示す「べリカード」がもらえて、うれしかった。
連坊小路から車で西へ4キロほど走ると、県立仙台第二高校に着く。高校1年生のとき、大河原町の後に住んだ県北の古川市(現・大崎市)から仙台市へ戻り、2学期から通った。
再訪は、正門から入った。風格を感じる門構えで、左右の緑が豊かだ。正面にある古い鉄筋2階建て校舎は、変わっていない。裏のグラウンドへ回ると、野球部が対外試合をしていた。
この母校で、「やってみたければ、素直にやる」という『源流』からの流れが、川幅を広げた。1年生の担任は国語の教諭で、佐藤康彦先生といった。指導を受けて、学級で文集をつくる。作文が評価を得たのか、文芸部へ誘われる。入部して小説を書き、詩もつくった。母校へくると、それを思い出す。
2年生になるとき、佐藤先生は盛岡市の岩手大学へ転勤となり、夏休みなどに級友と一緒に訪ね、交流が続く。大学受験が近づいてきたとき、理数系の科目が得意だったので理系の学科へ進もうと思っていたら、佐藤先生に「きみは文系脳だ。文系に適しているね」と、思いがけない指摘をされた。
でも、志望は変えず、63年4月に京都大学工学部の合成化学科へ進む。高校が男子校だったので、女性と接したくてフォークダンス部へ入り、2年生のときに看護学校にいた加代さんと出会って、のちに結婚した。
4年生のとき、合成化学科にスイス人のコッホ博士がいて、研究パートナーの募集に手を挙げたことで縁ができて、博士の母校のスイス連邦工科大学チューリッヒ校の大学院への留学を勧められた。就職して「身分保障」を得てから留学しようと考え、面接した大日本インキ化学工業の社長に話すと認めてくれて、67年初夏に渡欧した。
昼休みは2時間食事をして運動もスイス人流に同化へ
光を使った新しい化学合成の研究に、真面目に取り組んだ。でも、周囲の世界は、どうも違う。昼休みが2時間あり、多くの研究者は自宅へ帰って昼食をとって、ゆっくり戻ってくる。単身者は食事をしたら、プールへいったり運動をしたり。夕方も定時に帰り、オペラを観たり音楽会へいったり。そんな過ごし方に同化して、ドイツとの国境にあった湖へいってヨット遊びも楽しんだ。