先週に多く読まれた記事の「見逃し配信」です。ぜひ御覧ください(この記事は「AERA dot.」で2024年10月15日に配信した内容の再配信です。肩書や情報などは当時のまま)。
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映画『キングダム大将軍の帰還』やドラマ「始皇帝 天下統一」など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を博している。史実でも活躍した始皇帝の近臣たちの中には墓が残っているものもあり、人物の最期を象徴している。
映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、「近臣たちの墓をめぐる謎」について言及している。
新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。
【『キングダム』よりも先の史実に触れています】
呂不韋の墓は、自殺した洛陽にあり、領地に埋葬されたことになる。呂不韋が残した『呂氏春秋』には、盗掘されないためには質素な埋葬を行うべきことが見える。自然の山陵に見せかけて盗掘を防ごうとした墳丘であったのであろう。
嫪毐(ろうあい) の乱の後に、呂不韋が相邦を解任されて雒陽に送られたときに、諸侯や賓客の使者が道に溢れたという。かれらによって丁重に埋葬されたのであろう。
李斯の墓は、始皇帝陵からは遠く離れた河南省上蔡県にある。訪れてみると、円墳の前には「秦丞相李斯之墓」と刻した現代の碑があった。『史記』には始皇帝の死後、咸陽で腰斬の死罪を受けたあとのことは記されていない。
李斯は処刑の直前に、自分の子と一緒に故郷の上蔡県の東門で黄色い犬を連れて兎狩りをしたいと述べている。遺体も上蔡県に帰葬(故郷に埋葬されること)された可能性は大いにある。
蒙恬の墓は陝西省綏徳県西〇・五キロメートルにあり、「秦将軍蒙恬墓」と刻した石碑が残されている。死罪を命じられた場所に埋葬されたことになる。同時期に自決した扶蘇の墓も、同じ綏徳県に残されている。
王翦の墓は陝西省富平県東北二〇キロメートルに高さ約九メートルの墳丘として残されている。王翦は内史の頻陽県の出身であるから、故郷に埋葬されたことになる。
王翦と李信とが楚への出兵をめぐって争ったときに、秦王は李信を信頼したところ、王翦は頻陽に帰老した。李信が敗北したあとに、秦王はわざわざ頻陽に赴いて王翦に謝った。
統一後の王翦の動静はまったく『史記』に記載がない。咸陽にも近い故郷に戻って老年を過ごして埋葬されたのであろう。