明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第5回は「黄海海戦1894年9月17日」。
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黄海海戦1894年9月17日
豊島沖海戦後、しばらく日本の連合艦隊は、清の北洋艦隊と接触することができなかった。
戦力を保持する目的で、あえて李鴻章が北洋艦隊提督・丁汝昌に対し、海戦を避けるよう命じていたからだ。
しかし、日本陸軍が平壌を陥落させた翌日、両海軍が遭遇。黄海海戦が始まった。連合艦隊の艦船は12隻(約4万t)、北洋艦隊は14隻(約3万5000t)。前に述べたように、北洋艦隊は定遠・鎮遠という7000t級の巨艦をはじめ、多くの船が装甲艦であり、重砲(口径21㎝以上)も日本海軍の倍の数を所有していた。日本が清より勝っていたのは、軽砲の数と速力だけであった。
にもかかわらず、結果としては日本側の勝利となった。艦船3隻を撃沈し、1隻を座礁・破壊した日本の連合艦隊に対し、清側は3隻に大きな被害を与えたものの、1隻も沈没させることができなかった。
日本の勝因は、斬新な戦法にあった。当時の海戦では、船の喫水線下にある衝角(ラム)という尖って突き出た金属製の部分を相手の船に衝突させて破壊するのが一般的だった。
ところが連合艦隊は、縦列で高速に移動しながら敵の艦上に大砲や速射砲を撃ち込んで船を破壊し、乗組員を殺傷する手法を用いたのである。これを日本海軍に教授したのは、お雇い外国人・ジョン・イングルス(イギリス人)海軍大佐だった。
連合艦隊が勝利したとはいえ、定遠・鎮遠を沈めることはできず、日本軍が完全に制海権を握れたわけではなかった。ただ、幸いにも、北洋艦隊は戦力温存のため、要塞化されていた山東半島の威海衛に入ったきり、出てこなくなった。