『ヤマケイ文庫 愛犬王 平岩米吉 「日本を代表する犬奇人」と呼ばれた男』片野 ゆか 山と渓谷社
この記事の写真をすべて見る

 犬を愛し慈しむ人を「愛犬家」と呼んだりするが、その愛が大きすぎるが故、"犬奇人"と呼ばれた男がいる。今回紹介する片野ゆか氏の著書『愛犬王 平岩米吉 「日本を代表する犬奇人」と呼ばれた男』(ヤマケイ文庫)は、一生を犬に捧げ、偉大な功績を残した「平岩米吉」の生涯の物語を垣間見ることができる。

 同書の主人公である平岩米吉は、江戸時代から続く裕福な竹問屋に生まれた。就学後の学業成績は常にトップ。10歳ごろには家業の主要義務を完璧にこなし、"神童"と呼ばれるほどだったという。

 そんな米吉の生涯を決めた物語といっても大げさではない、曲亭馬琴作・葛飾北西画の読本『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)に出会ったのは、6、7歳の頃だった。主人公と狼にまつわるエピソードに心を捕らわれた米吉。とはいえ、米吉はすぐに動物方面の道に進んだわけではなかった。

 自己暗示にかかりやすい性質を持っていた米吉は、自分で「こうだ」と思うとそれが体調や行動に大きく影響してしまうところがあった。裏を返すと、人並み外れた集中力と自分を信じる力があるということなのだが、この気質が複数の分野の才能を開花させることになる。

 短歌をはじめとする文学活動、連珠(五目並べのルールを進化させた競技)など、さまざまな分野で活躍できる素地のあった米吉は、連珠の世界で生きることを決意する。

 その後、米吉が動物学へ転換する理由はいくつかあるが、その中でも自身の子どもたちが生まれたことも大きな要因のひとつだった。米吉は子どもたちの育児日記をつけることで、生命の神秘や発達の過程に圧倒され、驚き、感動した。いつしかその体験は他の生き物、つまり"犬"への好奇心へと繋がっていったのだ。

 好奇心と探求心という大きなエネルギーに動かされた米吉は、昭和4年、自由が丘の屋敷に家族と移り住み、本格的に生き物の研究に専念することに。そして犬や狼など、さまざまな野生動物を飼育するために屋敷をフェンスで取り囲んだ。

 屋敷をフェンスで取り囲んだ理由は「生き物の研究をするには"生きている状態のままを観察することが最適"であり、そのためには一緒に暮らすことが一番いい」と考えたからなのだが、実際にこの考えを有言実行することは相当な覚悟と情熱がなければできなかったことだと思う。

 ちなみに動物と生活をともにした研究・観察によって動物の生態を知るという方法は、動物行動学者の父として知られるコンラート・ローレンツが有名だ。しかし米吉が犬科動物の研究を始めた当時は、日本はもちろん世界でも「動物行動学」という分野は確立されていなかった。そして転居の翌年、昭和5年に「犬科生態研究所」を設立し、米吉の研究生活が本格的にスタートすることになる。

 複数の犬科動物を飼育していた米吉だが、なかでも熱心に研究していたのが狼だった。そう、冒頭で触れた『椿説弓張月』の影響がここに繋がったのだ。とはいえ、憧れがあるからといって実際に狼と暮らすということはなかなかできることではない。

「今日まで狼を飼育して失敗した人々は、いずれも肉食は危険になる、という迷信から無理に菜食させていたのである」(同書より)

 現代に生きる私たちでも"狼は肉食、人に噛みつく"という先入観を少なからず持っている。もともと断片的な伝承や土地に伝わる噂話、思い込み、人間の都合で作られたマイナスのイメージが強かった狼。骨格を主にした犬研究専門の斎藤 弘と協力し、日本で初めての本格的な狼研究をスタートさせ、既存のイメージと実際の狼の習性は違うということを米吉は証明したのだ。

 昭和9年、米吉は私財と動物文学の会員などから募った資金をもとに研究を委託。「フィラリア研究会」を設立した。

「日本の犬の多くの命を奪ったフィラリアを撲滅したい――」(同書より)

 自身の愛犬"チム"の死をきっかけに、多くの犬の命を奪ったフィラリアを撲滅したいと考えたからだ。実際に研究を進めたのは米吉ではないが、米吉が私財を投じ行動に移していなかったら、フィラリア予防薬の完成は大幅に遅れていたのではないかと思う。

 同書の著者である片野氏は、「犬への愛情に裏付けられた探求心を貫いた結果、晩年には『日本を代表する犬奇人』と呼ばれるまでになった」と説明している。

 「犬奇人」という言葉は、犬への愛を貫き人生を捧げ、偉大な功績を残した平岩米吉にふさわしい敬意のこもった言葉なのだ。この機会に自身の人生を犬に捧げた男の物語を覗いてみてはいかがだろうか。