
やらない道はない
家族や仲間を失うという経験を、父も母もしていた。父は沖縄戦で兄を失い、母は1959年に沖縄県石川市(当時。現在のうるま市石川)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した事故でたくさんの友達を亡くしていた。
「確かに、と思ったんですよね。沖縄の人たちは、すべてを失うような状況でも自分たちが誇れるものやエネルギーに変わるものを生み出してきた。戦後はアメリカ兵が出すゴミでカンカラ三線を作って、歌って踊って。戦後の民謡には、俺たちはこんなに恵まれてるぜ!っていう超ポジティブな曲がたくさんあるんですよ。例えば、民謡界のレジェンド・登川誠仁さんの『豊節』もそう。その精神が自分の中にも息づいていると思うと、自分の中にある強さも信じられるようになりました」
沖縄で音楽活動を再開。自分が何をすべきか、残されたエネルギーを何に使うかを決めようと考えるようになった。そして33歳でメジャーデビューした後、YZERRの一言をきっかけに日本のヒップホップシーンを背負う覚悟を決めた。
「Awichさんって何になりたいんですか? 姐さんがやらなければ、他に誰が背負えるんですか?って聞かれたんですよね。怖さもあったし、背負うとかそんな大それたことなんてと思っていたんですけど、自問自答していたら、『勇気が要ることほど、やる意味があるんじゃないか』と思うようになりました。むしろそんな面白いことができるなら、やらない道はないんじゃないかってワクワクしたんです。旦那の死がなかったら、こんなにクリアな信念は得られなかったかもしれない。本当に結果論だし、それが良かったとは言えないんですけど、私はこういう風に乗り越えたというストーリーをみんなに見せたい」
(構成/朝日新聞出版・金城珠代)
※AERA 2024年3月11日号より抜粋