週刊朝日1991年7月26日号の表紙を飾った高田万由子さん。篠山紀信さんが撮影した

 その後も事あるごとに「こちらの万由子さん、どう?」と篠山さんはいろいろな方に私を紹介してくださった。携帯電話が普及していなかった時代、自宅の電話に頻繁に呼び出しの電話をいただいた。

「万由子さん、今から〇〇さんと食事に行くから一緒にいらっしゃい」「万由子さん、新しい写真集ができたから見にきて」と声をかけていただく度に迷うことなく、篠山スタジオに通った。大御所と呼ばれる多くの方々を交えながら、たわいもない話からアートの話まで毎晩のように話をした。20歳の私にとっては、とにかく刺激的な毎日だった。

 篠山さんは私の実家にもよく遊びに来てくださった。「おい篠山!」と親しくし、自宅での撮影にも協力的だった亡き父。好きなときに使えるようにと合鍵まで渡していた。

 篠山さんは大正時代に建てられた私の実家を「篠山第2スタジオ」と呼んでこよなく愛してくださった。建物だけでなく、いつもカメラ片手に家中でシャッターを切っていた篠山さん。「T邸の怪」や「家族の肖像」に収められた。家に戻ると、モデルさんがヌード撮影中なんてこともあった。堅物の父だったが、篠山さんのアートにかける情熱には寛大だった。

 父のためにあらゆる角度から撮影し残してくださった解体前の自宅の写真など、家族も私も沢山の写真に収められた。

 家族にだけではなく、当時お付き合いをしていた彼(葉加瀬太郎)にも紹介した。ある時、彼のバンド、クライズラー&カンパニーのCDジャケット写真を撮ってほしいと遠慮がちにお願いしてみたら「もちろん!」と快諾してくださった。

 また、私の大学の卒業式の前日には、「万由子さん、明日、卒業式が終わったらスタジオに袴姿でいらっしゃい」と連絡をいただき、卒業記念の写真をプレゼントしてくださった。

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無邪気に喜ぶ篠山さんの姿が忘れられない