築地駅(後方)から地上に運び出されて手当てを受ける乗客=1995年3月20日午前9時7分、東京・築地で

 28年前の地下鉄サリン事件で「被害者への支援」を手探りで続けてきたNPOが活動を終える。スタッフは、今後もいつ起きるか分からない事件への対応を「風化にあらがって語り継ぐ」。AERA 2023年11月27日号より。

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 埼玉県から東京の職場に通勤していた男性(69)が、28年前の春の朝、息苦しさと後頭部の激痛でうずくまったのは、地下鉄人形町駅の階段を下り始めた時だった。

 ひとつ前の小伝馬町で日比谷線が停まった。築地駅で大きな事故が起きている、と車内放送があったので、ホームに降りた。後からわかったことだが、前の電車で見つかったポリ袋を乗客が蹴りだしたホームには、猛毒の液体から気化した無臭のサリンが充満していた。

 その時点では「事件」にほとんど気づいていない乗客の波の中で、都営線への乗り換えを急ぐ男性は、地上に出て人形町駅へ、ひと駅歩いたのだ。

 その朝は天気が良かったのに「いやに暗いな」と感じた。瞳が縮む「縮瞳」が始まっていた。当時、40歳を超えたばかりの働き盛りの体力で、何とか会社までたどり着いた。

「完治」のはずが

 あちこちの地下鉄でたいへんな事件が起きた、と会社のテレビが騒いでいた。「自分の症状もこれが原因か」と会社近くの病院に急いだ。「瞳孔が縮んでいます」と診断され、入院することに。瞳孔検査をする人が他にもいた。祝日だった翌日は休み、水曜日から出勤した。

 数カ月間病院に通って「完治した」と言われた。労災保険を扱う労働基準監督署にも「完治」を報告した。目が熱を持ち、疲れが残りやすかったが、「いつまでも回復しないと言ってたら、会社からはじき出される。住宅ローンもいっぱい残っていた」。

 病院から遠ざかった。

 NPO法人「リカバリー・サポート・センター」(RSC)から連絡があったのは7年後だった。「神経眼科」を紹介された。

「その眼科で救っていただいた。サリンの後遺症だと診断を受けた。自分の気のせいではなかった」。男性は、今も症状が残り、年2回通院している。

 当時、診療にあたった若倉雅登医師は言う。「RSCの皆さんが来られて、被害者の方は普通の病院では異常なしと言われるけれど、こんなに多いのだから何かあるはずだ、と」。若倉医師は、一般の眼科とは異なり、「脳と目の関係」を調べる神経眼科が専門だった。以後、2010年までに295人のサリンの症状を確認した。
 

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