神学院を訪ねた日、母校の調布中学校と都立国立高校にも寄った。中学校の建物も在学中とほぼ同じ。緑が豊かに残った光景をみて、頷く。高校でも、木々の緑が目に飛び込んできた。校内に入ったのは卒業以来で、48年ぶり。「こんなに高い木や大きな木が、たくさんあったかな」とつぶやく。
グラウンドに立つと、サッカーに明け暮れた放課後は、強い西日が差していたことが蘇る。再訪には、サッカー部の先輩と後輩がきてくれた。先輩は卒業後もサッカークラブをつくり、楽しみ続けている。後輩は、最近までサッカー部の顧問をしていた。3人でボールを蹴り、パスをしてみる。しながら、サッカーから学んだことを、胸中で反芻する。「何事も、チームワークだけでは勝てない。やっぱり個人、個人がうまくないと、トップにはいけない」
就職で実家を離れ独り立ちを目指すも母が隠した淋しさ
国立高校を出て車に乗り、母がいる日野市の実家へ着いた。高校2年のとき、両親が建てた家だ。丘の上の分譲地は、青空が眼下にまで広がっていた。
父は、91年に64歳で亡くなった。でも、名古屋へ赴任した後に姉夫婦が同居したから、母が孤独になる心配はない。東京へは出張も多いが、ここへ寄るのは年に2、3度。今回は、前夜に泊めてもらった。
両親の会話には、教育論が多かった。父はよく「教え子が、立派な左官屋になった。小さいころから勉強だけができるというのは、人生とは関係ない」と言っていた。教え子を平等にかわいがっていたのだ、と思う。
母と、就職時のことが話題になった。名古屋の会社を選んだのは、実家から通えば楽だが、1人で暮らす環境に身を置かなければいけない、との思いが強かった。大学時代、友人はみんな下宿で、親から仕送りしてもらっても苦労していた。そういう経験がないまま社会人になってはいけない、実家を出ようと決めていた、と母に話す。
母も気持ちを酌み取って、黙って見送ってくれたと思っていた。違っていた。「名古屋へいくとは、思わなかったわ。東京に支社があると言うから、家から通うとばかり思っていたの。そうしたら……。あのときは、がっくりした」という言葉が返ってきた。初めて、聞いた。母の淋しさに、気づかなかった。両親から教わった「以心伝心」の難しさを、再認識した。