皆さんは、今年、桜の花見に行かれただろうか。私は、いまの一軒家に住み始めて16年になる。近くの通りに、何の変哲もない桜の老木がある。その樹との対話が、実に楽しい。花見とは、櫻とのコミュニケーションだと、私は思っている。
「桜前線」という言葉があるように、花見の時期は全国各地でさまざまだ。沖縄県本部町では1月から桜まつりが開催される。私も訪れたことがあるが、その時は、ディアマンテスがライブをしていた。札幌に住んでいた時は、大型連休に花見ジンギスカンをした。道北では、6月でも桜が咲いていた。
世界的には、「年度」は年の後半に始まる国や地域が多い。私は、日本は4月に始まって良いと思う。その代わり、例えば「秋入学」のように、1年に2回チャンスがあるようなサイクルにすれば、もっと世界水準でアクティブになるのではとも感じている。
私が最初に好きになった桜は、自宅の庭にあった樹だ。その下にシートを敷いて、花見をした記憶が鮮明に残っている。桜だけではなく、椿や夏みかんなども植えられていた小さな庭は、私にとっての小宇宙だった。植物との季節ごとの「対話」が、楽しくて仕方なかった。しかしながら、大量の毛虫が発生したのに加え、ガレージを作ることになり、私は大反対したが、桜は切り落とされた。
その頃の私は、自宅から1時間半かけて、箱根にある白百合女子大系属の幼稚園に電車で通園していた。首に定期券をぶら下げて、2つの鉄道を乗り継いだ。いまの親世代から見たら信じられないかもしれないが、私にとっては当たり前の毎日だった。駅員さんや車掌さん、同じ時刻の電車に乗る常連さんらとも親しくなり、いろいろなことを教えてもらった。終点の強羅駅に着くと、坂道沿いに桜が並んでいた。まるで、私を迎えているように感じていた。
今年は、久々に、箱根の桜に会いに行こうと思った。残念ながら、深い霧が立ち込めていたが、昔のまま、桜は同じ場所で悠然と咲き誇っていた。あの時の園児はこんなオジさんになってしまったが、さまざまな人生を見続けてきた桜にとっては、特段、驚くことではなかっただろう。あの頃の私は、幼稚園が終わると、知人が管理人をしていた保養所を訪れ、ほぼ毎日のように白濁した温泉に浸かり、それから「登山鉄道の夜」を体感しながら、帰宅していた。
桜を切り落とした頃は、自宅を改築している期間でもあり、一時的に、箱根湯本にある饅頭屋さんの2階に間借りしていた。朝6時から、地下にある工場で、職人さんが作業を始める。熟練した技の凄さを知った。通園の道中に、中華料理店があった。私は、ポケットにある小銭を握りしめながら、炒飯を食べるか、少年サンデー(「ダメおやじ」が好きだった)を買うか、逡巡するような園児だった。ある日、炒飯を食べていると、ラジオから奇抜なヴォーカルが聴こえた。後で知ったのだが、それがサディスティック・ミカバンドの「タイムマシンにお願い」だった。音楽は人生に寄り添うものだ。ノスタルジーを分かち合える幸せも、日本の春の喜びだろう。
自宅の桜が切り落とされると知り、4歳だった私は、「それなら、僕が切る」と言って、泣きながら物置にあった鋸を手にしていたらしい。そのことは記憶にないが、もし成就していたら、今頃は大統領になっていたのかもしれない。そんな、ありえないことをホロ酔いしながら嘆くのも、春の一興なのかもしれない。Text:原田悦志