撮影:野町和嘉
撮影:野町和嘉

■収容所で生まれた子どもたち

 野町さんが収容所を訪れたときは旧ソ連時代と違って政治犯はおらず、刑事犯が収容されていた。意外なことに「取材は極めてスムーズだった」。

「撮影にはまったく制約がなく、自由でした。特に女囚については写真を撮られることに対して抵抗感が全然なかった。穏やかでね」と言うと、野町さんは1枚の写真を見せてくれた。「これは私なんです」。

 25人ほどの女性たちが満面の笑みで野町さんを囲んでいる。要するに記念写真だ。

「どこかの会社の社員寮の雰囲気ですよ。女性の表情が生き生きとしている。でも、彼女たちの3人に1人が殺人犯なんです。それで、この雰囲気でしょ。こっちが混乱しちゃいますよ」

 居住棟に通い、女囚から話を聞くうちにさまざまなドラマが見えてきた。すると「収容所は彼女たちにとって、一種の駆け込み寺になっているのではないか」と感じた。

「当時は国が崩壊して経済は最悪でした。でも、収容所内では食事が保障されていた。ノルマさえ達成していれば、ダブルベッドの部屋で家族と3日間同衾(どうきん)する機会も与えられた。賄賂さえ出せば、男を連れ込むのも全然平気らしい。みんな念入りに化粧もしている。要するにこれはロシアの底流の日常風景の一つなんです」

撮影:野町和嘉
撮影:野町和嘉

 さらに「これが象徴的なんですが」と言い、別の写真を見せてくれる。一見すると託児所か、保育所のようだ。

「そうそう、彼らは収容所内で生まれた子どもたちなんです」

 ここでは毎年30人前後の出産があるという。

「パートナーの酒癖が悪くて、いさかいになって殺害し、臨月で入所したとか。収容所の中で妊娠して子どもを産んだとか。彼女たちと仲よくなると、そんな話をベラベラとしゃべってくれた」

■稼働し続ける収容所

 一方、男性収容所に収監されているのはほぼ全員が殺人犯だった。警備は厳しく、移動のたびに必ず点呼があった。

「こちらでは機械工作に使う道具などを作っていたんですが、労働の現場では常に緊張感がありました。でも、居住棟を訪れると、表情は結構やわらかかったですね」

 旧ソ連時代、当局は刑法209条に基づいて、戸籍のないものや路上生活者、仕事を持たない既婚女性は必要に応じて連行できた。

「この法律を活用してものすごい人数を収容所に送り込んで生産性を上げた。もちろん、『収容所群島』の時代とは違いますけれど、囚人を働かせて軍事物資を作ったり、地域開発を進めていくシステムはそのままずっと生き残っているのを実感した。つまり、収容所の存在はロシアにとって常態なわけです」

 いまウクライナのロシア支配地域から住民が次々と遠く離れた地域に移送されていることはロシア国内でも報道されている。しかし、それに対する批判の声をほとんど耳にしないのは当局の監視を恐れているだけでなく、それがロシア国民にとっては当たり前だからかもしれない。

アサヒカメラ・米倉昭仁)

【MEMO】野町和嘉写真展「シベリア収容所1992」
OM SYSTEM GALLERY(東京・新宿) 10月13日~10月24日

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