もう一つ、ショックだったのは中央アジアに多くの朝鮮人が暮らしていることだった。
「戦前、スターリンは極東地域に住む朝鮮人が日本軍に寝返るのではないかと危険視して、彼らをほぼすべて中央アジアに強制移住させたんです」
そんなこと目にした野町さんはコーディネーターに収容所を取材したいと、交渉を依頼した。
「彼はモスクワから来ていたんですが、内務省筋にめっぽう強かった。ところが運悪く、いくつかの収容所で暴動が発生していて、『いまは無理だ』という返事だった」
■絶妙なタイミング
野町さんは帰国後、再チャレンジすることにした。強制労働の象徴であるシベリアの収容所にねらいを絞り、取材を打診した。すると翌年2月、コーディネーターから吉報が届いた。
「当時は旧ソ連体制が崩壊して、いろいろな意味で大混乱だった。それ以前の時代では収容所の取材は許可されなかったでしょう。もちろんいまのプーチン政権下でも無理だと思います。ペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)で国が開かれ、なおかつ崩壊したというタイミングで取材できた」
新潟からハバロフスクまで直航便で2時間弱。意識的にはものすごく遠いところなのに、そんな時間で行けることに驚きを覚えた。
まずはハバロフスク郊外の収容所を取材し、さらに北へ約270キロ離れたコムソモリスク・ナ・アムーレの収容所を訪れ、森林伐採に従事する囚人の姿を撮影した。
ハバロフスクの2カ所の施設にはそれぞれ男囚と女囚が収容されていた。市街地から車で約30分。収容所の周囲には荒れ地とアムール川の湿地が広がっていた。
ちなみにこの収容所はいまも稼働しているという。野町さんはパソコンのモニターでGoogle Earthの画面を拡大すると、約500人の女囚が収容されていた建物を指さした。
「これが居住棟です。少し離れた場所に集会場と食堂があって、となりが懲罰房。一番大きな建物が縫製工場です。当時と何も変っていない」