当時の武士は職務にもよるが、非番の日が割合多く、そうした事情は地方から出てきた勤番侍にしても同様だった。万延元年(1860)五月に出府し、勤番侍としての生活を開始した紀州藩士酒井伴四郎が書き残した日記によれば、この年の六月の勤務日は6日のみで、それも午前中だけであった。七月などは一日も勤務していない。八~十一月の勤務日数も毎月10日前後に過ぎず、非番の日は江戸見物に精を出していた。

 同じ幕末の頃、伊予松山藩士だった内藤鳴雪によれば、勤番侍が必ず江戸でしたことが二つあった。一つは江戸三座(中村座・市村座・森田座)の歌舞伎を見ることで、もう一つは遊廓の吉原に登楼することである。この二つを経験することが、江戸の土産話には欠かせなかったというが、勤番侍には暮六ツ(午後六時)の門限が課せられており、吉原見物は昼間に限られた。

 屋敷の外に出ることが月数回に制限されていた勤番侍としては、数少ない外出日は制限時間いっぱいまで使いたかったのは言うまでもない。帰りが門限ギリギリになるのは避けられなかった。

※週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』から