東日本大震災が起こったとき、私は宮城県で気象キャスターをしていました。当時の行動や気象キャスターとしての葛藤、そして仕事に対する心境の変化について、素直な気持ちを書きました。2011年3月11日に、宮城県にいた一人として、そして気象キャスターとして、震災での経験や、防災の大切さを今後も伝えていきたいと思っています。
この記事の写真をすべて見る震災当時 被災地のテレビ局での状況
私は、宮城県仙台市のテレビ局で気象キャスターをしていました。揺れがあった時間は、局内で、夕方のニュースに向けての準備をしていました。大きな揺れの中、机の上の大量の資料や本が倒れないように必死に押さえました。
揺れが収まってからは、次々に流れてくる震度や津波の予想についての情報を整理したり、取材へ向かう記者へ、天気の見通しについてなどを伝えたりしていました。何が起こっているのか、はっきり理解できないまま、目の前にある仕事に向かっていました。揺れが起こった直後はそれほど怖いと感じませんでした。いま思えば、それは、何が起こっているのか、しっかり理解していなかったからだと思います。
少し経ってから、次々に入ってくる耳を疑うような被害状況を聞きました。●●(よく知っている地域)に、多くの遺体が…そんな情報を初めて耳にしたときは、信じられませんでした。でも、そのあとも次々に入ってくる被害の状況を聞き、間違いではなく、現実にとんでもないことが起こっているのだと、少しずつ理解していきました。
気象情報の重要性について思うこと
やや記憶があいまいですが、震災翌日から、気象情報の放送がありましたので、原稿を書きました。ただ、当時、自分の仕事に意味があるのか、大きな疑問を持っていました。電気もガスもなく、水もでない、そもそも家族との連絡すら取れていない人が大勢いる中で、テレビを見ることができた人は、宮城県内にどれほどいたのでしょうか。誰のための情報なのか、それを考えると、テレビで気象情報を伝える意味を見失ってしまいました。
2、3日経って、沿岸部の支局にいるカメラマンが、仙台市内の局に戻ってきました。そのとき、そのカメラマンから、週間予報を教えてほしいと言われました。避難所にいる人たちが天気を知りたがっていると。暖かくなるのか、寒くなるのかだけでも知りたい、と。はっとしました。こういう時だからこそ、気象情報は大事なのだということに、そのときやっと気づくことができました。寒くなるなら、その分、防寒用の毛布や段ボールを増やさなければいけません。雪が降ったり、風が強まったり、波が高まったりする場合は、捜索活動にも影響が出る場合もあるでしょう。普段は、生活が便利になるようお伝えすることが多い気象情報ですが、このときから、生きるために必要な、大事な情報なのだと思うようになりました。