即位の礼が行われましたが、平成と令和の始まりを比べるとずいぶんと違う様相だったと思います。私は自著の『ナショナリズム』で平成の終わりと象徴天皇について書き、なぜ平成は画期的だったのかにも触れました。それは30年という歳月をかけ、名実ともに天皇陛下の人間宣言が具体的な形で国民に浸透したからだと考えています。被災地の慰問や「戦地巡礼」のような慰霊の旅など、常に国民に寄り添う象徴というイメージが広く国民の中に着床し、なおかつ自らの意思で退位するという「脱出」の自由(奥平康弘『「萬世一系」の研究』)を行使されたことなど、人間天皇の姿が国民の共感を得たのだと思います。象徴天皇は実際に自らが身体を動かして社会に内在し、絶えず国民の統合を作り出していく象徴作用によって担保されていることを示されたわけです。
天皇制の基本は血統原理です。マックス・ウェーバーの言葉を使えば「世襲カリスマ」、つまり血統の中にカリスマが宿り、誰が継承するのかというところにたどり着きます。その連綿性を「天壌無窮」として神話的な太古の時代から現代に至るとみなすのが萬世一系的なるものの本質ですが、これとは対照的なことが偶然にもラグビーのワールドカップで出現しました。
ラグビー日本代表は、言ってみれば即興的な形で複数の民族、国籍も文化も違う人々の集まりとなり、血統原理に基づく天皇制の萬世一系的なるものとはコントラストを描き、それは否応なしに日本という社会の近未来の姿を先取りしています。
今回、多様性の世界をラグビーという形で先取りして我々に見せてくれたわけですが、多くの国民はそれを不自然と思わず受け入れました。令和になってもなお、血統原理に基づく萬世一系的なものの残滓は形式として残るでしょう。その一方で血統に基づかない人々が今後この日本列島に住みつくことになるはずです。単なる美辞麗句ではなく、血統に基づくヒエラルキーのない平等で多様なものが重んじられる共生社会を実現すること、これが令和という時代の課題になるのではないでしょうか。そこに新しい時代にふさわしい象徴天皇の地位と役割があるように思います。
※AERA 2019年11月11日号