批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ニューヨークの国連気候行動サミットで行われたグレタ・トゥンベリ氏の演説が話題だ。
氏は16歳だが、すでに国際的な環境運動のリーダーとして知られている。その彼女が世界の政治家をまえに、「あなたたち」旧世代は「わたしたち」新世代の未来を奪う悪者だと、声を荒らげて訴えたのである。
環境問題が緊急性を高めていることはたしかである。世界気象機関の報告によれば、2015年から19年までの5年間の世界平均気温は観測史上最高の見込みとなっている。北極海の海氷は急速に縮小し、アマゾンでは過剰伐採のため火災が拡大している。
気候変動は経済格差とも関係している。国際NGO「Oxfam(オックスファム)」の調査によれば、温室効果ガスの排出は上位10カ国で半分を占め、個人消費分についても人口の富裕層1割が半分を占めている。豊かな人々が後先考えず自然を破壊し、貧困層と次世代にツケを回しているという明確な構図が、この問題には存在している。
したがってトゥンベリ氏の怒りはもっともである。しかし同時に考えるべきなのは、「わたしたち」(味方)と「あなたたち」(敵)を分け、後者を激しい言葉で糾弾する、その演説手法がほんとうに有効なのかということだ。実際に氏の口調は過度に攻撃的で、世界中で賛否が分かれた。なかにはひどい人格批判もある。反論側が悪いといえばそのとおりだが、人間は攻撃されたと感じると反撃する生物でもある。分断を回避するのも政治の知恵だ。
これはトゥンベリ演説に限らない。人々を善と悪に分け、激しい言葉で感情を駆り立て、SNSで拡散を図る市民運動の手法は世界中であたりまえのものになった。しかしそれは、短期的に味方を増やすかもしれないが、同時に敵も増やす危険な戦略である。政治家や知識人は距離を取る必要があろう。
最後に余談だが、同氏については日本では「環境少女グレタさん」といった見出しが多く見られた。性差別と年齢差別に鈍感なメディアの限界が現れたように思う。氏は一人の運動家として扱うべきであり、それゆえ演説も冷静に聞くべきなのだ。
※AERA 2019年10月14日号