批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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新年早々、ネットでテレビ批判が吹き荒れている。昨年大みそかの番組で、差別表現や暴力行為があったというのだ。
問題とされたのは日本テレビ系で放映された「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!大晦日年越しSP(スペシャル)!」。批判の対象となっているのは、番組内で浜田雅功が黒人俳優に扮して顔を黒塗りにしたこと、およびタレントのベッキーが「不倫騒動の禊(みそぎ)」との名目で尻を蹴られる演出があったことの2点である。
黒人以外が顔を黒塗りにして黒人を模倣することは、欧米では「ブラックフェイス」と呼ばれ差別表現とされる。国際的には許されない。実際、同演出には日本在住の黒人作家がツイートで不快感を表明したほか、海外メディアも取り上げる大きな騒ぎとなった。他方ベッキーへのキックのほうは、少なからぬ視聴者に「いじめ」を連想させたようだ。ベッキー自身が暴力演出を肯定したことも、炎上に油を注いでいる。
両者の問題は性質がまったく異なっている。けれども、激しい批判が現れる一方、「気にしすぎ」との理屈で、古いタイプの視聴者から番組擁護が行われる構図は共通している。
騒動を俯瞰(ふかん)して思うのは、お笑いがどこまで社会を「気にする」べきなのか、その範囲こそが意見の割れる点になっているということである。お笑いなんだから多少の逸脱はありと考えるひともいれば、お笑いだって反社会的であってはならないと考えるひともいる。どちらが正しいか、答えを出すのは容易ではない。
それでも言えるのは、今後は芸人や番組制作者が、そのような「気にしすぎ」な批判にも真摯(しんし)に向き合う必要があるということである。そもそもいまや、芸人は社会常識の外部を気取ることのできる立場にない。芸人が純文学を書いて芥川賞をとり、論壇番組で憲法論を語り、首相と会食をする時代である。
であれば、お笑い番組に高い水準の社会的配慮を求める視聴者が現れるのも、当然のことである。それはもしかしたら、芸人が望んだ世界ではないのかもしれない。しかしそれは、芸人が「偉く」なったことの代償なのだ。
※AERA 2018年1月22日号