ともあれ通底しているのは、未来への希望が確かに織り込まれていることだ。
当時、こうした希望にあふれる未来像を生み出した想像力の源は、なんだったのだろう。コラムニストの泉麻人さんは、
「オリンピックの前から続く所得倍増計画、高度経済成長の流れにあった発想ですよね。そして、世界各国に目が向く“国際ブーム”が起こった64年の東京オリンピックから、69年のアポロ計画での人類初の月面着陸による“宇宙ブーム”の影響もあって、宇宙開発技術をはじめ、最先端の科学技術というものに注目が集まっていたのだ、と思います。パビリオンも月の石やアポロの展示が呼び物だったアメリカ館や、ソユーズ号のソ連館に人が殺到していました」
と語る。当時、泉さんは都内の中学生。
「少年雑誌のカラーグラビアでも、大伴昌司氏あたりが監修する未来科学のネタが目立ちましたからね。万博そのものの特集ももちろんありましたが、空を飛びながら会社に行ったりとか、宇宙食のようなものを食べるだけでいいとか、『未来はこうなる』という記事がお正月の新聞紙面によく載ったりしていました」
59(昭和34)年の皇太子(当時)ご成婚、64(昭和39)年の東京オリンピックで一気に普及したテレビの存在も大きかったと泉さんは語る。
「カラーテレビの普及が一段と進んでいったころです。テレビで一大イベントとして紹介されていた印象はあります」。子どもたちに大阪万博を事前に印象付けたものに「ウルトラマン」のある回がある。
「67年の年頭に前後編で放送された『怪獣殿下』という回ですね。その回に登場する怪獣ゴモラが、まさに万博の会場で展示するために運ばれる途中に落っこちてしまい、大阪で大暴れするというストーリーでした」
万博を彩った各種のデザインに今も力を感じる。
「たとえば曲線で作られた黄色と黒のシマシマ模様のフジパン・ロボット館なんかもウルトラ怪獣的な雰囲気を感じますが、パビリオンの造形や色合い、コンパニオンの制服などにも、ウルトラ的なセンスを感じます。とりわけ岡本太郎の太陽の塔は、あの時点ですごく斬新でしたが、今見ても古臭さを感じないところはすごい」
(本誌・太田サトル、木元健二)
※週刊朝日 2020年3月20日号より抜粋