女流作家は数いるけれど、私たちのようなこんなのもいるんです。二度と出会えない二人です。スヌーピーを見ると私の胸はいつも痛みます。
ある時、お聖さんと私は珍らしく真面目な話をしていました。その時に彼女はこんなことを話しました。
「わたしは昔、トコトン真面目で勝気な優等生的なところがあってね」
お聖さんはいいました。芥川賞を受賞した後、いい作品を書こう、書きたい、書かなければと思い詰めて、いくら書いてもうまく行かずに行き詰ってしまった時代があった。
「その時、おっちゃんがいうてくれたんよ。『小説みたいなもん、たいしたもんやない。そんな青筋立てて書くほどのもんやない。そう思て書いたらええのや。ええ加減に書いたらええのや』そういわれたらふっ切れて肩から力が抜けて行ったんよ」
確かにお聖さんは勝気で真面目そのもの、勉強家の優等生だったでしょう。その意識が本来の田辺聖子の資質に蓋をしてしまっていたであろうことは十分に考えられます。おっちゃんの洞察力でお聖さんの資質は自由に飛び立ち、開花したのでした。お聖さんはいいました。
「そやからね、私はおっちゃんに救われたんよ。おっちゃんのおかげやねん」
「田辺聖子の今日があるのは」という思いがその後につづいているのでした。
そしてお聖さんは次第に「天然」の人になって行ったのだと思います。彼女の流麗な文体は苦慮して出てくるものではなく、田辺聖子の胸奥の泉から自然に湧き流れてくるものです。
田辺聖子の最高の幸福は、おっちゃんという伴侶を得たことでしょう。そう思うと、対談の席について来て、盃を傾けながらニヤニヤと妻の仕事ぶりを眺めていたおっちゃんを、「けったいなおっさん」などと思っていた私はホントにダメな作家だと心から反省します。
※週刊朝日 2019年6月28日号