──侍従長や宮内庁長官をはじめ、多くの人々が皇室に仕え、支えています。

 天皇が幼少のころから東宮傅育官として仕えた東園基文氏。代替わりを取り仕切った藤森昭一・宮内庁長官。後任の鎌倉節・宮内庁長官。そして、93年に声を失った皇后を支え、その後も皇室医務主管として天皇の心臓のバイパス手術などを支えた金澤一郎氏。それぞれ生半可でない覚悟で、皇室を支えていました。

 昭和と平成の「二君に仕えた」山本悟侍従長も、印象深い人でした。

 一本気で、ときには激烈な言葉を吐く。憲法論議をすると、「オレなんか現行憲法の下で一刻も呼吸したくないんだよ」と挑発され語り合ったこともあった。

 天皇の代替わりの難しい時期に、半世紀あまり仕えた徳川義寛侍従長から、後を引き継いだ。本人は固辞していたが、宮家筋には「いいじゃないか」と推す声もあった。昭和天皇の戦前からの“権威”に親しんだ旧世代には、新天皇、皇后の民主的な持ち味や公務ぶりに危惧を覚え、歯にきぬ着せぬ剛直な性格の山本侍従長にお目付け役を期待する向きもあったかもしれません。

 でも、本人には、つらい役まわりでした。

 代替わり後、旧東宮職スタッフが新侍従として皇居に乗り込みました。新天皇、皇后は昭和の旧慣を改め、一般国民とひざ詰めで語らい、積極的に外国を訪問しました。山本侍従長が腕を振るう機会は、限られていたようでした。

 93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。

「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。

 しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。

「この結婚は、失敗だった」

 まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。

 山本侍従長は、何も説明しませんでした。

 そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。

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