ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「年越し」を取り上げる。
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毎度のことながら、『年越し』というのは大変な騒ぎです。別に季節や気候が変わるわけでも、新年度のような生活環境の変化があるわけでもないのに。何でしょう、この『新年』の持つ絶大な影響力は。思うに『新年』なる概念は、人類が生き進むために捻り出した究極の知恵なのではないでしょうか。『生きる』こととは、同時に『葬る』ことでもあります。日々の暮らしや感情に片を付け、リセットする。でなければ途方に暮れてしまう私たちにとって、特段これといった理由なしに、半ば自動的にリセットできるのが『年越し』なのかもしれません。
2017年への年越しも、「今年の熱は今年の内に」と言わんばかりに、改めて感動や狂騒を何度も何度も噛み締め、そして一斉にリセットしていました。年が明けた途端、昨日までのことが、一気に懐かしいものと化すあの感じ。年越しに纏(まつ)わる感情は実にデジタルで、我ながら驚きます。年末のテレビなんか、まさに『野焼き』状態。ブームやヒット曲は、リセットしたい世間の『身代わり』として、繰り返し祭り上げられながら、一旦葬られるわけです。昨年は『PPAP』という稀代のヒット曲があったお陰で、暮れの『野焼きっぷり』も非常に顕著なものでした。当のピコ太郎さんに、「俺は葬られない」という自信があるからか、何とも小気味良く、清々しい年越し感に溢れていました。
そう考えると、もしSMAPが大晦日に姿を現し、盛大な解散劇を見せてくれていたら、グループに対する喪失感とともに、メンバーそれぞれの存在までも、一度『お葬い』されてしまった可能性もなきにしもあらずです。かつてSPEEDが解散発表をした年の紅白で、「これが4人最後の……」と煽り過ぎた結果、年明け以降の3カ月(解散は翌年3月だった)が消化試合のようになってしまったことを思い出しました。そして結局、この世は『騙し騙し』がいちばんなのだと痛感した次第です。
さて、今年もまた紅白歌合戦について、やいのやいのと騒いでいますが、毎年「今年はつまらなかった」と言われ続けて幾十年。それも込みで紅白です。1994年に司会を務めた古舘伊知郎さんは、紅白を『年に一度の幸せの確認作業』と表現されました。磐石で王道だからこそ、皆安心してケチを付け、無事新年を迎えられた達成感と安堵感を得る。新鮮さがないのは平和である証しです。ちなみに海の向こうでは、『おマラ』ことマライア・キャリーが、全米の年またぎを一手に担った挙句、新年早々矢面に立たされているようですが、あのたわわ過ぎる乳房もまた、合衆国の豊かさそのもの。吹けば折れるような存在では、世間の勝手を受け止められません。紅白もマライアも、偉大なる幸せの象徴です。
それにしても、昨年の紅白における最大のトンチンカンは、『シン・ゴジラ』でも『タモリ&マツコ』でもなく、『ポール・マッカートニーからのビデオメッセージ』に他なりません。あまり誰も言っていないようなので言いますが。唐突かつ何の脈絡もなく、しかも一瞬の出来事過ぎて誰も処理できず、かと言って何かを期待させるでもない謎のメッセージ。要するにポール・マッカートニーは、『紅白でスルーされた』ということでよろしいでしょうか? まさか噂の『SMAP枠』補欠要員?
※週刊朝日 2017年1月27日号