清水氏は1926年、三重県津市に生まれ、旧制大阪貿易語学校を卒業した。学校では剣道部に所属し、教士六段の腕前を持つ。
「剣道部の師範の先生が私を『戦技特別研究要員』にしてくれて、兵隊になるのを1年遅らせてくれたんです。その間に剣道部の部員15人が戦死しました」
1944年4月、18歳のとき、陸軍の徴兵検査を受けた。
「あのころはみんな、学校を卒業し、18歳に達したら軍隊に徴兵された。甲種合格と聞いたとき、これはやばい、歩兵として戦地に送られ、殺されるか、機関銃で敵を殺すか。どちらも嫌だった。人間もね、動物なんです。生き残るには、一を聞いてピンとくる勘が何より大事。運がいいだけでは助からないものだよ」
生き残る方法を必死で考え、幹部候補生のテストを受験した。
「最前線の一兵卒よりも、幹部なら生き残れるのではないかと思ったんです」
陸軍の幹部候補生の試験を受け、合格した。先に入隊していた兄と同じ千葉県・津田沼の鉄道隊に1945年、配属された。
「199人いる1期生のうち生き残ったのはたったの15人くらい。あとは全員戦死した。私はほんのちょっとのズレで後回しになり、2期生になったので、命拾いした」
戦況は悪化する一方で、B29爆撃機が日本の上空を飛びまわった。鉄道隊では来る日も来る日も血だらけになってレールや枕木を担がされて走り、艦砲射撃、銃弾、砲弾により、多くの戦友を目の前で亡くした。
「そんな中、私が受けた訓練は、手に地雷を持って、そのまま敵の戦車の下に飛び込み、自爆するというものでした」
国民総玉砕かと思われたが、8月15日の敗戦をむかえ、8月28日、「復員命令」が出た。
もともと、清水氏の両親は大阪市・天満で乾物、缶詰、青果などを販売する食料品店を営んでいた。大阪に到着し、梅田や天満の界隈を歩いたが、見渡す限り焼け野原。せっかくたどり着いたわが家も焼失していて、途方に暮れるばかり。