小説『終身未決囚』で第31回直木賞を受賞した作家・有馬頼義(よりちか)氏。小説家として華々しい経歴を持つ彼だが、私生活は荒れ果てていたと息子の有馬家第16代当主・有馬頼央(よりなか)氏は吐露する。
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親父は、直木賞作家の有馬頼義です。月に1度、東京・杉並の自宅で開いていた若手作家の集まりには、五木寛之さん、渡辺淳一さん、色川武大さんなどが来ていました。松本清張と並ぶ社会派推理小説の巨匠、なんて言われたこともあったようです。ですが、有馬家にとっては、祖父の頼寧(よりやす)や家の伝統的なものをひたすら否定した人でした。
有馬家は明治以降、3世代続けて宮家と婚姻しました。祖母は北白川宮家から嫁入りしています。そこにも親父は矛盾を感じていたのでしょう。「皇族から嫁をもらって、妾を囲って、カネをじゃぶじゃぶ使って、何が社会運動か」と祖父に言い放ったこともあったほどです。
一番の反発は、芸者と結婚したことでしょう。私の母です。親父が見初(みそ)めて、一方的なラブレターをたくさん送ったという話です。でもそこは文筆家だから、心動かされる手紙だったみたいですよ(笑)。
母が気の毒なのは、親父が身請けして結婚するまでのいきさつを『夕映えの中にいた』という小説で書いてしまったこと。有馬家では禁書になっていました。僕が小学1年のときでしたけど、PTAでも好奇の目で見られたようです。
母はなかなか有馬家に認めてもらえなかった。とくに、祖母が宮家から連れてきたおつきの人たちがひどかった。犬や猫ですら「さん」づけなのに、母は呼び捨てにされたそうです。
夕方になると、親父はブロバリンという睡眠薬を飲みました。ひどいときは一瓶ぜんぶをウイスキーで流し込む。で、夕食どきになるとバタッと倒れて、ごはんをひっくり返してしまう。まだ小さかった弟がぎゃーぎゃー泣くなか、母親と僕とで昏倒した親父を運ぶこともしばしばでした。
母は近所の薬局を回って、ブロバリンを親父に売らないようお願いしましたが、ムダでした。親父は「この睡眠薬は良かった」という手紙を製薬会社に出すのです。すると営業が喜んで、試供品を持ってくる。たまたま親父がいないときにブロバリンの会社の人が来て、「このたびは、頼義先生に良い記事を書いていただきまして、ありがとうございます」と、お礼にひと箱置いていこうとしました。「何言ってんの。中毒よ」と、あきれた母がその人を書斎に連れていって、戸棚いっぱいのブロバリンの瓶を見せたこともありました。
僕が中学2年のある朝、親父がガス自殺をしているのを見つけました。驚きはなかった。とうとうやっちゃったか、という感じです。
僕がガスを止めたために親父は生き延びてしまった。その後は家にいなければ、入院しているか女のところにいるかです。おかげで母はずいぶん苦労しました。「『火宅の人』の檀一雄さんの家も大変だったけど、うちなんかもっとひどかったわよ」と話していました。
わが家が荒れていたのは、地元の福岡・久留米にも知られていたようです。菩提寺での法要も、よほど大事なものでなければ声がかかりませんでしたし、親父もほとんど行ってなかったと思います。
※週刊朝日 2014年8月1日号