先日、400年の歴史を持つという近所の温泉へ行ってきました。檜の露天風呂に浸かりながらじんわり緩んだ頭でぼんやり目の前を眺めていると、外とお風呂を仕切る壁に1ミリ程度の隙間があることに気付きました。1ミリ程度なので、外の様子は見えません。でももし外に人が立っていたら光の加減で確実にそれとわかる、それくらいの幅でした。
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この隙間、いつからあるんだろう。温泉ができたという400年前からあるんだろうか。今はいろいろ娯楽があるし、というか防犯カメラもあるしで女湯を覗き見しようなんて不届き者はいないだろうけど、400年前はこの隙間を必死で覗き込もうとした人がいたかもしれない。隙間の向こうを横切る影にあれこれ想像力を働かせていたかもしれない──。たった1ミリの空間を見ただけで、こちらの想像もはかどりました。
地方で生活していると、こんなふうに想像の翼に運ばれてふっと意識が数十、数百年前に飛んでいくことがよくあります。壁の隙間、神社のひんやりした境内、やたら厳重に保存されている石、変な方向に折れ曲がった道──。想像のスイッチは至る所に存在します。都会にスイッチがないわけではないのですが、数、手つかず具合、謎の多さではやはり地方に軍配が上がります。都会の歴史的建造物は、あってもきれいに整備され丁寧に説明書きが記されているところが多いですから。
地方に住むと町内会に所属して伝統行事を運営することが増えるのですが、そのときも歴史に思いを馳せないわけにはいきません。夏祭りのように楽しいイベントもあれば、掃除や献金などの正直おっくうな仕事もあります。でも自分たちが今ここで仕事を怠れば今まで何百年、場合によっては千年以上も続いてきた伝統が途絶えて未来に受け継げなくなってしまうのだと思うと、責任感に身が引き締まります。
前回の記事で「地方では都会よりも近隣のコミュニティーとのつながりが生まれやすい」と書きました。ご近所さん同士のつながりを横とすれば、ご先祖と子孫とのつながりは縦です。地方では縦横どちらにも結びつきができるというのが、東京から家族で引っ越し、10カ月住んでみた実感です。