――広告業界は激務だと言われています。

 本人も覚悟はしていました。それでも物おじしない性格で体力的にも精神的にもストレス耐性に自信があると。「官僚で死ぬほど働くより、電通で死ぬほど働く方がまだマシ」なんてことも言っていました。それでも、寝る時間もないくらい忙しい日々が続いて、精神的に疲弊してしまったのです。

――「就職に反対していれば」という思いはありますか?

 就職には反対しましたが、聞き入れませんでした。私の力では止められなかったと思います。都会での働き方やキャリアの知識もなく、アドバイスもできませんでした。私が頼りないばかりに、と悔やんでいます。

――まつりさんの様子に異変を感じたのはいつごろからですか?

 10月ごろ、まつりがチケットを用意してくれてディズニーランドに2人で行ったんです。アトラクションに並んでいる最中に、「仕事が辛い」とこぼしていました。「こんなに辛いとは思わなかった。もう限界だから、休職か退職するからね。お母さんは口出ししないでね」と。私も「死ぬくらいなら絶対に辞めてね」と言っていました。なんとか解決してくれると思っていたので、見守るしかないと。会社や上司には相談していたのですが、うやむやになってしまい、ずるずると仕事を続けていました。

――仲のよい親子だったんですね。

 亡くなる5日前の週末にも会っていました。まつりが住んでいる社員寮に行って、掃除や洗濯をしてあげたんです。「明日はランチに行こうね」と前の晩に話していたのですが、よほど疲れていたのでしょう。まつりは昼まで起きられず、結局行けませんでした。正月は静岡の実家に帰ってくるとのことで、「あと一週間したら実家に帰るね」とまつりが話していました。それが最後の会話になってしまいました。

 振り返れば、当時は激務に加えて、忘年会の準備も重なっていました。私が東京に行くと、忘年会で流すためのVTRの撮影を日曜日にしていました。まつりの同期の方もいたのですが、撮影が終わると、「まだ仕事があるから会社に戻るね」といってその同期は会社に戻っていました。日曜の夜にですよ?

「会社近くのイルミネーションがきれいだから見てきなよ」とまつりに言われたこともありました。ライトアップが夜10時までなのですが、「仕事が終わらなくて、私は見たことがないんだけどね…」という娘の言葉や、「わたしたちの深夜の仕事が東京の夜景を作っているんだよ」と言ったことは今でも忘れられません。

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