“モノサシ”は1つじゃない
2度の中退騒動はたしかにつらい経験でしたが、私は思いのほか、あっさりと気持ちを切り替えました。その理由として思い当たるのは、子どもたちが幼いころから親子登山を続けてきたことです。
山のなかでトラブルに遭遇した場合、ただその場に留まっているだけでは命の危機に直面しかねません。だから、正解が見えなくても何らかの善後策を講じます。そんなことを親子で何度も経験してきたので、「大事な命を守るためなら、現状に執着する必要はない」という大前提が私たちのなかにありました。
また、私は、ハードな岩場で子どもたちが思いもよらぬ力を発揮する場面を何度も見てきました。だから、子どもという生きものの“生きる力”を無条件で信じていたのです。「元気さえ戻ってくれば、彼らは自分で自分の道を選ぶだろう」と信じて疑わなかったことで、結果的に私自身があまり苦しまずに済んだのでしょう。
もう1つよかったのは、偏差値や校則が世界のすべてではないと体感していたことです。学校でしか通用しないモノサシで「君はダメだ」と言われたとしても、大自然のなかに一歩足を踏み入れれば、そのモノサシのほうが通用しなくなる。肌でそう感じていたので、わが子が学校のモノサシに合わなくても、あまり気にならなかったのです。
次の世界への扉は必ず開く
現在、長男は昔からの夢を目指し、家を出て地方の大学でがんばっています。次男は企業インターンなどを通して国内海外問わずあちこちで経験を積むなかで、改めて大学で学びたいと思うようになったようです。
どこかのタイミングで学校に行けなくなっても、または「行かない」という選択をしたとしても、何ひとつ終わるわけではありません。息子たちにとって通信制高校や高卒認定試験がそうであったように、次の世界への扉はいくつもあり、その扉は本人が開けたくなったときに開くようにできています。そして、言うまでもなく進路は大学だけでなく、人の数だけあるものです。
大事なのは、生きていること。どんなときも、何があっても、大事なのはその一点です。そこさえ見誤らなければ大丈夫。私はいまもそう思いながら、彼らを遠くから見守っています。
(文/棚澤明子)
棚澤 明子

