「あなたの英語は中学生以下だ」
このときつくられたのが、日本初の有料高速道路となる名神高速道路だ。その仕事で、田中先生は挫折を味わう。上司から文書を英訳するように言われ、仕上げて提出すると、「あなたは大学の英文科を出てるんでしょう? こんな英文は中学生以下だ」と言われて、ビリッと真っ二つに破かれた。
「ショックでした。そのときのトラウマが残っていて、今でも長い英語の文章を書くのが少し怖いのです」
田中先生は英語を聞いたり、要約して話したりするのは得意。しかし英語の知識は持っていても、それを組み立てて文章を作る力が足りなかったという。
「そのとき学びましたよ。知識だけでは役に立たない。それらの知識を組みあわせて、自分なりの骨格を作る必要があると。それが後々役立ちましたね」
上司は、東大時代にフルブライト奨学金を得てアメリカへの留学経験のある、建設省のキャリア。
「文法は正確で文章は完璧。かないっこありませんよ。でも、しゃべるのは下手くそだったけどね(笑)」
苦い出会いではあったものの、その上司にはその後、何度も助けられたという。
京都の山の学校が教員の原点
転機は、思わぬ形で訪れた。交通事故に遭い実家のある京都で入院していると、京都の教育委員会から「高校の臨時教員をやらないか」と打診があった。快諾し、小中高の教員の免許を持っていたため、その後も児童がたった1人だけの僻地の小学校と、生徒7人だけの中学校も引き受けて、山奥の学校までオートバイで通った。
「ここでの経験が教員としての私の原点。ただ教室で勉強することだけじゃなく、『生きる力』を、生徒から学びました」
小中はもとより、受け持った高校の生徒数も全校で50人程度。生徒と先生の距離は近く、授業だけでなく一緒にいろいろなことをして過ごした。春は筍掘りに山菜採り。夏は川でウナギや鮎をつかまえたり、テントを張ってキャンプをしたり、蛍の観察をしたり。冬はスキーに興じた。
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