●神奈川県立希望ヶ丘高校(1969年から)
「『華美と経済的負担』や『一般人との区別と防犯』等を根拠とする反対意見と、『個性の画一化と体制順応』および『高校間格差の象徴』等を根拠とする賛成意見が交々表明されて激論となり、最終的に『服装規定はない(制服、制帽、バッジ、体操着、靴)。ただし、靴の上下は上下履き、体育館シューズの区別は残す』」(『神中・神高・希望ヶ丘高校百年史』 1998年)
●長野県長野高校(1969年から)
生徒会で制服自由化を決議。「学校側が強制的におしつけた制服のために自由な行動を奪われぬための反抗である」「制服による学校差意識は明らかに制服を自由にすることによって解消されるものと思われる」等の認識があった。学校はこの決議を受けて「服装規定を廃止する」(『長野高校百年史』1999年)
いま思うに、相当な決断だっただろう。これらの学校は最後の最後のところで、生徒を信頼しようということになったのではないか。
制服、校則は必要ないと、自由を標榜する学校もある。中学受験塾の日能研の受験誌「進学レーダー」11月号(みくに出版)では、自由の森学園、和光、明星学園の校長座談会が掲載されている。テーマは「自由な校風の学校」だ。3校の校長はそれぞれこう語る。
「自由の森には校則はありません」「人間は自律的な思考ができると、最終的に人のことを認めたり、許したりできるようになる。これが『自由』です」(自由の森学園)
「上履きが指定されているだけで、服装も髪型も自由です」「自由とは思考停止にならず自分の頭で考えること。子どもには失敗する自由があります」(和光)
「生徒手帳がないから、明文化されたルールはありません」「自由とは字のとおり、『自らを由』とすること。いろんな岐路に立ったとき、よく考えて自分の行動を選ぶこと、それが自ら由とするということです」(明星学園)
生徒を校則で縛って管理するばかりでは、生徒が息苦しくなる。校則がやたら厳しいほど、それに従うことばかりにきゅうきゅうとして余裕がなくなり、疑問を持ったり、自分でものを考えたりする機会を失いかねない。
生徒をもう少し信頼してもいいのではないか。自由な雰囲気のなかでも、自分でしっかり考えて、自分の好きなテーマを自主的に勉強する。
2020年度からの入試制度改革は、「自分の頭で考える」を試すことを掲げている。大学教育改革の目玉であるアクティブ・ラーニングは、課題発見、問題解決能力を養い、「自分の頭で考える」力を育むことをめざす。
校則がない。制服がない。だから東京大合格実績につながるという理屈は、もちろん成り立たない。だが、厳しい校則で管理するより、自由な校風のもとでのほうが「自分の頭で考える力」が身につくのではないか―――これは、麻布、灘の教員のことばである。
(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)