1972年6月8日に南ベトナムでナパーム弾を浴びた際にニック・ウトさんが撮影した一連のネガ/6月6日、米ニューヨークのAP通信本社、ニック・ウトさん撮影
1972年6月8日に南ベトナムでナパーム弾を浴びた際にニック・ウトさんが撮影した一連のネガ/6月6日、米ニューヨークのAP通信本社、ニック・ウトさん撮影

 背後で黒煙が立ち上り、裸の少女が必死に叫びながら逃げる──。ベトナム戦争末期の1972年6月、元AP通信写真記者ニック・ウトさん(71)が、子どもたちがナパーム弾を浴びた直後を撮影した写真は世界に衝撃を与えた。被写体のキム・フックさん(59)が、自由を求めてもがいた長い道のりは、教訓に満ちている。AERA 2022年6月27日号から。(前後編の後編)

【写真】米ニューヨークでのイベントに登壇した被写体のキム・フックさん

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 9歳で身体の約3割に負った重度の大火傷から九死に一生を得て入院治療中、ニックさんは写真を紙焼きして彼女の自宅に届けていた。退院後にそれを見たキム・フックさんは「なんでこんな写真を撮るの」と恥ずかしく嫌な気持ちになった、と取材に語っている。今回ニューヨークで再会した際も「正直、以前はこの写真が嫌いでした。苦痛に満ちた裸の少女の写真ですから」と改めて話した。

 イベントがあった日の午前、彼女はニューヨークのAP通信本社をニックさんと訪ね、当時の一連のネガを初めて見た。すると、「泣いてしまった」と言う。50年を経ても、トラウマが蘇るのだ。

 写真はベトナム戦争終結後も、思いがけず彼女の手足を縛ってゆく。「自分のような子どもを助ける医師になりたい」と猛勉強して医大に入った82年、ベトナム政府に「あの写真の少女だ」と「発見」され、反米の象徴として、また西側の援助を引き出す「道具」として外国メディアの取材を受けさせられ続けた。政府の意に反した発言は許されなかった。

 プロパガンダの仕事優先のため、大学も退学させられる。その割には暮らしへの支援はなく、食べるのにも困った。急ごしらえの国家体制で中央と地方の指示も一貫しない分、何をしたらお咎(とが)めとなるかがわかりづらいだけに恐怖で、ひたすら役人の監視の目が光り、友人もなかなか作れず孤独にさいなまれた。

 ベトナムを出たいと願った末に実現したキューバ留学で、北ベトナム出身の留学生と知り合い92年秋に結婚、モスクワへ新婚旅行へ。これが、亡命につながる逃避行となる。

 キューバの首都ハバナとモスクワの間は直行便がなく、カナダなどの空港で乗り継ぎする必要があった。そこで行方をくらます東側の人がいるという噂を聞きつけたキム・フックさんは、自分たちも後に続こうと、夫にも言わず決意した。モスクワから戻る便で、乗り継ぎのカナダ・ガンダー国際空港にあと2~3時間で着こうかという時、ようやく夫に亡命計画をささやく。「万一捕まったら大変なことになる」と首を縦に振らない夫を機内で説き伏せたが、空港でどうしたらいいかわからず、必死の思いでカナダ入国につながるドアを探す。

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