再搭乗の時間が近づく中、少し開いたドアの奥にキューバ人が手続きしているのを見て、「ここだ」と2人で滑り込んだのだった。
「火傷の影響で心身ともにつらい痛みを感じてきたうえ、長いあいだ政府の監視下に置かれ、自由がなく、虐待を受けているかのようでした。本当に、心の底から自由を求めていたんです」と、キム・フックさんは振り返る。
ベトナムで起きたこと、
ウクライナの人にも
今回のイベントの会場に、ニューヨーク在住の南ベトナム出身の女性、レ・リエウ・ブラウンさん(87)がいた。63年、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教弾圧に抗議し焼身自殺した僧侶を撮影しピュリツァー賞を受賞した、故マルコム・ブラウン記者の妻だ。ベトナム戦争の報道関係者らと長く親交がある。
その彼女にキム・フックさんの一連の亡命譚の概略を伝えると、「全然知らなかった」と驚き、「米国でももっと知られるべき話」と言っていた。
彼女とも一致したのは、戦争は、被害の瞬間だけでなく、いかに長期的に個人に苦難を及ぼすかという点だ。キム・フックさんの50年をつぶさに追えば、それがひしひしと感じとれる。ベトナムで起きたことがウクライナと同様であれば、ウクライナの人にも同じようなことが起きる可能性はある、ということだ。
キム・フックさんは、亡命後しばらくは静かに暮らしたいと、この写真と距離を置いた。それが今のように向き合い語るようになったのは、94年の長男出産以降だという。
「長男を抱きながら、『あの時の少女のような思いをどうして彼にさせられるだろう?』『この子だけでなく、世界中のすべての子どもたちを守らなければ』と思いました」
医師としては果たせなかった、子どもたちを助ける夢を、財団などを通じて実現できるようになったこともあり、写真について「今は感謝しています」と語る。ニックさんが長年、彼女を家族同然にケアし続けたのも大きい。
恩讐を越えた彼女の思いにこたえるためにも、その半生から教訓をすくい取る。今も増える戦争被害者を、その後も含めて注視し、手を差し伸べる──。今こそ必要だろう。(朝日新聞記者・藤えりか)
※AERA 2022年6月27日号より抜粋