45年8月6日の朝、明子さんは現在の広島合同庁舎のあたりで作業中に被爆した。自宅までは、太田川に架かる橋も破壊されていたため泳いで渡った。力つきて倒れていたところを救助され帰宅したが翌日、急性放射線障害のため亡くなった。最期の言葉は「おかあさん、あかいトマトが食べたい」。<19歳 家事科2年、人生の3~4分の1来たのだ>(44年1月1日)と記していたとおり、人生のわずか4分の1で閉じた生涯だった。

 自宅にあった明子さんのピアノには、爆風で飛ばされた窓ガラスの破片が無数に突き刺さった。戦後、そのまま自宅に置かれていたが2004年、河本家の近所に住む日本語教師の二口とみゑさん(現・HOPEプロジェクト代表)が事情を聞いて譲り受け翌年、調律師の坂井原浩さんによって修復された。

「もともと使われていた素材を極力残すようにしました」と坂井原さん。音の共鳴に使うダンパーペダルに呼応するフェルトの減り具合から「かなり音色のニュアンスに神経を使って弾いていた」とみる。ショパンを好んで弾いていたという明子さん。「柔らかになめらかな音」を求めて練習し、幸せな時間に浸っていたのだろう。

 戦後60年ぶりに音色を取り戻した明子さんのピアノは国内のチャリティーイベントなどで紹介されてきたが、国際的な演奏家の関心を集めるきっかけは3年前に到来した。15年8月、原爆投下70年の祈念イベントで広島交響楽団(広響)と共演したピアノ界最高峰のマルタ・アルゲリッチが若者との集いにも出席。その席で、広島出身のピアニスト萩原麻未が弾く明子さんのピアノを聴いたのだ。イベント後にアルゲリッチは舞台に上がり、ショパンのマズルカを弾いてつぶやいた。

「明子さんはショパンが好きだったのですね。弾いてみてそれを感じます。不思議なことに、ピアノがそれを記憶しているみたい」

 大ピアニストの故ルドルフ・ゼルキンの息子で米国のピーター・ゼルキンも「明子さんのピアノ」に触れた一人だ。

「このピアノがもつ独特な『声質』は18、19世紀に作られていた古き良きピアノの音色をしのばせます。歌心に富んだ、ぬくもりのある人間的な声なのです。明子さんのピアノの『歌声』は、私たちを癒やし、さらには生きていることへの感謝の念を表現しています」

 ゼルキンは広島訪問中に明子さんのピアノに出合い、バッハやモーツァルト、ショパンなど思いにまかせ歌声を引き出した。その45分間の録音は明子さんのピアノによる初CD「Music for Peace」として今月発売され、収益金はピアノの保全やチャリティー活動に充てられる。

 一方、広響と平和祈念プロジェクトを進めるアルゲリッチは東京五輪のある20年夏、明子さんのピアノをカデンツァに用いたピアノ協奏曲の新作を初演したいと意気込む。

 戦後73年、天国で91歳になる明子さんは今も核に脅かされる世界情勢をどう見るだろうか。被爆した明子さんのピアノは柔らかくなめらかに、平和への祈りにも満ちた音色で私たちの心に疑問を投げかけている。

(文中一部敬称略)

(ジャーナリスト・野舞)

AERA 2018年3月26日号